真実の価値とは何か『真実について』
以前に「真実へのアンチ・テーゼ『嘘の効用』」で真実の価値に疑問を呈したことがあるが、これに回答してくれそうな本が、本書『真実について』である。著者は道徳哲学の重鎮であるフランクファート、正攻法の議論だ。
もっとも、管理人が反対したいのは、真実そのもの(真なる事実)というより、真実を標榜するだけの道徳ぶった議論であるから、むしろ著者の言う「おためごかし」の一種なのかも知れないが。それでも、真実そのものに価値はないのではないか、と書いてしまった手前、少し食らいついてみよう。
真実の実用的な価値
まずは、個々の具体的な真実の価値から。功利的な観点からの真実の価値は、誰にでも分かる。著者の議論もここから始まる。真実を前提としなければ、橋の建設や医療は成り立たない。人間が環境に有効に働きかけることはできない。これは相手が人間であっても同じだ。人の話が原則としてウソでないと信頼できることは、社会生活を成り立たせる重要な条件だ。
そういう真実に関する肯定的な認識が積み重なると、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』で説かれたような遺伝的基礎を持った道徳基盤に至るのだろう。だから、真実には倫理の後光が差してくる。時にこれがオーバーシュートして、「おためごかし」の議論に利用されることもあるだろう。モンテーニュやカントのように、ウソが社会に与える影響をストレートに道徳問題に結びつければ、なおさらだ。
「良いウソ」に潜む罠
次は、そこから更に進んでみる。著者は、まったく人々を傷つけないようなウソ、有益なウソすらあることを認める。それでもなお、そうしたウソをつく行為が「何か悪いもの」だと感じてしまうことを指摘する。そして、「ウソつきは自分の意思をこちらに押しつけようとするのだ。自分の捏造を、世界の本当の姿に関する正確な説明として受け入れるよう仕向けるのだ。ウソつきがこれに成功すれば、人は関連する事実に直接かつ信頼できる形で根ざす世界観ではなく、そのウソつきの想像力に源を持つような世界観を獲得してしまう。」と言う。
これを悪いウソを前提に読めば当たり前なのだが、良いウソを前提に読むと実に啓発的である。これが本書の中で一番の収穫だった。例えば、重病者に真実を告げるかどうか。告げなければ絶望することなく、当面の心の平静を得られるかも知れない。しかし、絶望を超えたところにある主体的な生の可能性を閉ざし、思い込みの判断による偽りの平静を押し付けるだけに終わるかも知れない。たとえ良いウソであっても、ウソをつこうとする者は、そのウソが創り出した世界で起こる結果をすべて引き受ける、責任と覚悟が必要なのだろう。
真実そのものの価値
最後に、著者が最も重視するらしい真実そのものの価値。著者はこの点、「私たち自身のアイデンティティの認識と理解は、自分自身と決定的に独立して存在する事実についての認識から生じるし、そしてその認識に不可分に依存している。」と言う。自分のコントロールの及ばない外界のさまざまな真実の認識こそが、自分自身のアイデンティティを鍛造するというのだ。
これは哲学的には見事な考察、に見える。しかし、本当に真実を認識しなければアイデンティティを形成できないのだろうか。これは少々飛躍があるのではないか。実際のところ、自分自身の外に溢れているのは、人間がどうあがいてもびくともしない鋼の現実である。認識したくなくても、いやでも認識させられる冷徹な現実だ。そんなことはよほどの馬鹿者でない限り、痛いほど分かっているはずではないか。そのために真実を持ち上げる必要はないだろう。
本書の目的は、「おためごかし」批判の前提にあった真実の重要性を改めて説くというもので、その主要な仮想敵はポストモダニズムのような連中であるらしい。あるいは、その後になって登場した、「代替現実」云々を説く頭のおかしな連中も仮想敵に加えられそうだ。その意味では、真実を全否定するような敵のレベルが低すぎて、当たり前の議論を繰り返さなければならなかったのだろう。
真実について
ハリー・G・フランクファート 著
山形 浩生 訳
亜紀書房









