思春期の不安定小説『悲しみよ こんにちは』
本作『悲しみよ こんにちは』は、著者サガンのデビュー作、そしておそらく最も読まれた代表作だろう。と言うよりは、華々しいデビュー作の後はそれほど振るわなかったというのが実際のところかも知れない。本作にしても、少々刺激的な作品の主人公と、18歳という若さの女流作家が微妙に重ね合わされた結果の人気、という面があったであろうことは否めない。主人公がサガンに投影され、サガンが主人公に投影され……。
実際、管理人のような素人が読んでも、ある種の新鮮さと共に、若書きの粗さが感じられる。本作を「青春小説」とする評があるけれども、「青春」と言うにはひねくれすぎている。あるいは、実際の「青春」とはそういうものかも知れないが、あえて言えば「思春期の不安定小説」というところか。
作品に感じる「引っ掛かり」
若書きの「粗さ」というのは正確でないかも知れない。むしろ文章や構成は理知的でしっかりした印象を受けるからだ。ただ、読んでいていちいち「引っ掛かり」を感じる。この「引っ掛かり」の正体は良く分からないが、文章(そもそも朝吹氏の翻訳文なのだからなおさらだ)でない以上、内容ということなのだろう。父親と愛人と娘の別荘生活という設定の不自然さなのか、その父親と聡明な女性との関係のアンバランスさなのか、おませな主人公の男友達との意外に奥手な関係なのか、あるいは特定の何かではない展開とか流れとかいったものか、何かストンと落ちない感覚が作品の全編に染みわたっていた。
この種の「引っ掛かり」を感じることは、作品の客観的な出来不出来や、主観的な好き嫌いにかかわらず、滅多にないことである。もっとも、唯一、似たような「引っ掛かり」を感じた作品が他に一つだけあった。二十年くらい前に、(それほど有名ではない)新人文学賞の受賞作の作者が高校の同級生と同姓同名で(別人であったが)、しかも題材が管理人の趣味(hobbyの意味)と被っていたために読んだ作品である。こちらの「引っ掛かり」はむしろ文章の生硬さだったような気がするが、全編にそれが染みわたっていて、話そのものは十分面白いのに作品として水準に達していないような印象で終わってしまった。
読んだ記憶が消えていた
さて、個人的に本作について最も印象深かったのは、実はこの「引っ掛かり」ではない。相当昔に買っておいた本を最近始めて読んだつもりでいたのが、古い読書記録を見ると一度読んだことになっていたのだ。つまり、読んだ記憶さえ残らないほど、最初に読んだ際の印象が薄かったということだ。本作は、小さな事件がたびたび起こるというくらいには起伏に富んだ作品である。今回読んで(読み直して)みて、「引っ掛かり」は別にしてもそれなりに考えるところ、得るところはあったと思う。そうしたことが、昔の自分を完全に素通りしてしまったことが驚きなのだ。
本作は、曲がりなりにもあれだけ話題に上った作品である。新人文学賞の受賞作と並べてしまうのはさすがに失礼な話で、少なくとも、見掛けによらず年齢を重ねてから読んだ方が深く読める(それに堪える)というくらいには優れた作品ということだろうか。それとも、昔の管理人の読み方が雑だっただけだろうか。
悲しみよ こんにちは
フランソワーズ・サガン 作
朝吹 登水子 訳
新潮社(新潮文庫)
現在は、同じ文庫で河野万里子による新訳が出ている。









