「分からない」哲学の正体『「知」の欺瞞』
著者が仮に「ポストモダニズム」と呼ぶ哲学がある。著者の説明によれば、啓蒙主義の合理主義的伝統を多少なりともあからさまに拒否すること、経験に照らし合わせての検証とは結びつかない論考、そして認識的相対主義や文化的相対主義を標榜して科学を数ある「物語」、「神話」、社会的構築物の一つとしか見ない姿勢、などで特徴づけられる知的潮流、ということである。この説明を聞いただけで、管理人は(全否定はしないまでも)拒絶反応を起こしそうである。
ナンセンスなパロディ論文
本書『知の欺瞞』は、この「ポストモダニズム」哲学という「知」の「欺瞞」を暴こうとしたものである。その試みは、ある正統的でない実験で始まる。それは、「ポストモダニズム」系の著名知識人の文献からの大量の引用をナンセンスな論考で糊付けしてパロディ論文に仕立て、有名ジャーナルに投稿するというものだった。論文は受理され、見事に掲載されたのだが、それはこともあろうに、ポストモダン思想への批判に反論するための特集号であった。有名ジャーナルの査読(あるいはただの編集か)は、そんなあらかさまな悪戯も見抜けなかった。まったく機能していなかったわけだ。
著者のパロディ論文は、例えば次のようなものだ。本書の副題にあるとおり、数学や自然科学に哲学的あるいは社会学的な意味があると論じた(濫用した)ものが主な標的になっている。
なるほど、分かるようで分からない。何とはなしに、既視感がある。パロディ論文の全文は本書の巻末に掲載されているが、なかなかの力作である。
意味を「見出す」
何か意味ありげに見るのは、他の難しい哲学の本と同じだが、こちらはまったくのナンセンスである。もちろん、このような論文が査読を通ってしまったとしても、それは、著名な論者の言説を賞揚したものである以上、何とか「善解」して意味を見出そうとし、たとえ意味が見出せなくても、「相対主義」的な謙虚さから掲載を承諾したのかも知れない。あるいは、査読はデタラメだったのだとしても、だからと言って、他の「ポストモダニズム」哲学の論考すべてがデタラメだということにはならない。それでも、それらに意味を見出せないのではないかと疑いを持っていた人々にとっては、さもありなんという結果だったのだろう。
学問や思想の世界では、その専門に通じていないと、まったく理解もできないようなものが増えている。素人に歯が立たないというのはいたし方ないが、専門家でも少し専門を外れると、あるいは流派が異なると、分からなくなる。これは、内容が高度になってきているとか、専門分化が激しくなってきているというだけでなく、特殊なジャーゴンを駆使できる「内輪」にしか理解できない閉鎖的な学問がはびこっているせいでもある。「ポストモダニズム」哲学の場合は、「内輪」ですらも実のところは理解されていなかったということか。そもそも形而上学では、ある理解が正しいのかどうか検証のしようもない、という問題もある。
読んでも「分からない」
さて、パロディ論文で引用され、本書でさらに詳細に批判を受けているのは、デリダ、ラカン、ラトゥール、ボードリヤール、と素人でも知っているような著名な論者である。管理人もこれらの論者の本はいくらか持っている。しかし、正直なところ、読んでもフワッとした印象しか残らかなかった。ある程度、文章を表面的に追うことはできるとしても、結局のところ何が言いたいのかは分からない。論理のガラはあっても論拠がない、論拠はあっても論理に飛躍がある、ように見える。本書がすべて正しいとも思わないが、わざわざ分かりにくい「ポストモダニズム」哲学の本をさらに読もうという意欲が失われたのも確かである。
管理人は、このブログでも「分からなかった」的なことを良く書く。これは、分かりもしなかったことをさも分かったかのように書いても意味がないから、ただ正直に書いているだけである。分からなかったのは多くの場合、管理人の能力が足りなかっただけなのだろうが、特別に意味を「見出す」ようなことなしに、つまりはテクストそのものの中に、辛うじて分かったこと以上の意味が本当に含まれているのかどうかについては、疑問を持つことが多い。だから、読んで分からなかった本についてあれこれ考えることはあるが、そういう本を好んで読むようなことはしない。
「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用
アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン 著
田崎 晴明ほか 訳
岩波書店