森鴎外の伝記文学の傑作『渋江抽斎』改め『抽斎&五百』
森鴎外には、伝記文学の傑作と称される三作品がある。『伊沢蘭軒』、『北条霞亭』、そして本作『渋江抽斎』である。中でも本作は、鴎外の全作品はおろか、近代日本文学の最高峰の一つとの声もあるほどだ。文章は惚れ惚れするほど立派。無駄な飾りがなく、抽斎本人から家族、その親族、師友、津軽家の当主まで及んだ人物描写も的確だ。などと管理人が言っても、何の説得力もないだろう。これはとにかく読んでいただくほかない。
「伝記」に至るまでの導入も、趣向が変わっている。江戸時代の史料を調べていた鴎外が、「渋江氏」の朱印の入った本にたびたび出会い、目録の著者と思われる「抽斎」と同一人物ではないかと考えて調査を初め、やがて見立てのとおりに人物を特定し、その子孫を発見してコンタクトをとる。良く言われるように、探偵小説のようでもあるし、実際、一つの調査報告であるとも言える。そうして蓄えていった情報を基に、いよいよ本編の「伝記」が始まる。
抽斎に自身の姿を重ねた鴎外
抽斎は、鴎外が自身と引き比べて「抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である」と述べるくらいの、一家をなした考証学者であった。抽斎はまた、医者であり、官吏であり、哲学や歴史や文芸の書を読んだという。これが鴎外自身とよく似ていることもあって、鴎外は「抽斎を親愛することが出来る」とも述べている。
もっとも、抽斎は歴史上で特に著名な人物というわけではない。何しろ、鴎外があれほど調査してようやく人物を特定できたくらいなのだから、むしろ、鴎外の本作によって世に知られるようになったと言った方が良い。また、鴎外と異なり読者の大半にとっては、抽斎のパーソナリティは親近感を持つには高尚にすぎるし、鴎外のような史料を通した偶然の邂逅という要素もない。にもかかわらず、本作が後の読者に読まれているのはなぜか。それは、五百(いお)の存在ではなかろうか。
五百に理想の家庭を見た鴎外
五百は、抽斎の四番目の妻である。抽斎との間に四男五女をもうけ、抽斎が亡くなるまで、そして亡くなってからも二十六年間にわたり家庭を切り盛りした。五百もまた、抽斎に嫁ぐだけあって、読み書き諸芸の外、経学(そして武芸!)まで授かっていたそうで、鴎外も好感をもって描いているようだ。六十歳を超えてから英文を読み始めたり、地動説を知っていて抽斎を驚かしたりと、本作の中にもずいぶんと登場する。抽斎と五百、鴎外はこの家庭のありように理想を見たのかも知れない。
この五百がなかなかの女傑であって、すでに幼少のころ、鬼が出るという噂のあった奉公先の屋敷廊下で鬼に扮していた悪戯者を捕まえた、という逸話があるそうだ。当然、長じてからもその性質は変わらない。中でも際立っているのは、屋敷に押し入った三人の侍が抽斎を脅して金を要求した時の話である。この時、五百は浴室にいたのだが……。
五百は僅に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜えていた。そして閾際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた二人が先に、?に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
本当にこの通りの事実だったのかどうかは確かめようもないが、後に渋江家でこのことが話題になるたび本人は「慙じて席を遁れた」ということだから、大きくは違っていないようだ。それにしてもこの三人の強盗侍、こんな目に遭わされたら現代風に言えばトラウマ、五百の形相が後々夢に出てきたに違いない。いや、それ以前にその場で腰が抜け、すぐにお縄にならなかっただけでも幸運だったと言うべきか。
書かずにおれない子孫、親戚、師友
本作に五百が登場してからは、抽斎よりも五百の言動が気になってしまう。鴎外が抽斎の死まで書き終えながら、「大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。……なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより下に書き附けて置こうと思う。」と述べて、なお数十年分の「伝記」を書き続けたのは、少なくとも五百の最期まで書きたかったからではないだろうか。いや、五百だけではない。放蕩息子の優善など、抽斎の周囲は知っていれば書かずにおれない人物に恵まれていたということだろう。
渋江抽斎
森 鴎外 作
岩波書店(岩波文庫)
本作は、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card2058.html)にも入っている。