実は最高聖人を生み出す人間機械論『人間とは何か』
人間、どう変わるか分からない。本作『人間とは何か』の作者マーク・トウェインは、明るさに満ちたアメリカ文学の最高峰『ハックルベリィ・フィンの冒険』の作者でもあるのだが、晩年は本作のようなペシミズムに沈んだ。しかし、近年の脳科学の成果によれば、作者の人間機械論は実はかなり当たっている。また、全面賛成とは言えないまでも、管理人の考えにかなり近い。そして実のところ、何らペシミズムでも反ヒューマニズムでもないのではないか、というのが読後一番の感想である。
人間即機械論は自由意志を否定するのか
人間の身体がある種の機械であることは、誰も争わないだろう。問題は精神であり、脳であり、突き詰めれば自由意志の存否である。本作の老人(作者自身か)の主張では、人間の行動も考えも、自分ではコントロールできない「心」の満足度合いで一切が動くのだから、自由意志などというものは当然に否定する。これは、多少の留保はしたいのだが、結局は当たっているのだろう。
自由意志がありそうに思えるのは、例えば今、右手でも左手でも自由に挙げられるという感覚に基づいている。しかし、しかし自由意志を十全に働かせようとして行きつ戻りつしてギリギリまで他の可能性を保持したうえで、実際に挙げたのは右手だった。すぐ次の瞬間に左手を上げることはできるが、最初の「その瞬間」に本当に左手を上げられたかどうかは、疑問だ。コンマ何秒の間に右と左を入れ替えることはできたとしても、「その瞬間」にはその直前までのあらゆるインプットとあらゆる脳状態とが前提になって、右手を上げると決定された、というほかない。
ただ、時間をおいて、そこに何かの介入を招き入れれば、右手でも左手でも挙げられるのは事実である。それでひとまずは困らない。重要なのは「その瞬間」の話ではなく、より広いスパンでの様々な可能性なのであって、それがあればたとえ機械であっても十分に柔軟で使い手のある機械ということになる。もっとも、そうした様々な可能性を生み出す介入も、元を正せばやはり外から来るものだろう。だから結局、コントロール可能な自由意志ではないのだろうが、それを自由意志と呼んでおけば良いのではなかろうか。
人間機械論は倫理や道徳を否定しない
実際、老人もこの「より広いスパン」の疑似自由意志を認めているフシがある。老人は大変な冷笑家であるが、実は相当な道徳家でもあり、そのためにはこの疑似自由意志が必要(そしてそれで十分)なのだ。実際、老人は人間が機械だと確信しながらも、善行に向けた訓練や教育は否定していない。それどころか、老人が述べる「戒め」は、実に立派なものである。
この「戒め」と一般的な道徳家の「戒め」の違いは、他人を第一に考えるか自分の「心」を第一に考えるかだけである。一見すると、他人を第一に考える方が利他的で、自己犠牲的であるから立派なように思える。しかし、無理して利他的あるいは自己犠牲的になろうとすること自体、他人と自分との間に線を引く通俗人間の限界を露呈している。この点、老人の「戒め」は、(手段としてであれ)他人の利益を図ることが自分の「最大の喜び」になるというのだから、他人の利益イコール自分の利益という究極の聖人ということになるのではあるまいか。苦しみながら他人に奉仕するのではなく、喜びながら他人に奉仕するのである!
人間機械論は反ヒューマニズムではない
このように、老人は通常とは逆ルートを辿りながらも、より高い人間的境地に達する過程にあったと言えよう。しかし、人間を過大評価し、機械を過小評価した結果、肝心のところで誤りを犯し、変なペシミズムに陥ったのではないか。老人は、中途半端に人間に未練があったため、人間機械論を徹底することができず、人間は機械なのだからそこに「人間的価値」がないのだと捻くれてしまった。しかし、そんなものは初めから必要ない。老人自身が述べているように、金属製機関と石製機関とでは違いがある。そう、機械ならば作用を、性能を問題にすれば良いだけである。何なら、それを「人間的価値」と言い換えても良い。
人間の性能は、知力や体力や容姿に限られない。精神の高さや豊かさも、重要な性能だ。先ほどの、他人に利益を与えて喜びを感じる性能など、最高性能であろう。人間の性能の大元はすべて外部にあるとしても、そういう性能を作り出した手柄など問題にせず、これまで手柄だと思っていた属性を、それを備えているというだけの理由でそのまま称えれば十分だ。例えば、大した努力もしなかったのに、たまたま遺伝や環境に恵まれて大そう有徳な性質を備えた人間がいるとしよう。彼は、その性質が自分の努力によらなかったことを思い悩む必要はない。そういう幸運を神に感謝し、自分のその性質を他人や社会のために役立てようとますます心を高めていけば良いだけの話である。
十分な知能を備えたロボットは、他人がその性能を生み出したのだと熟知していても、自らの性能を誇るだろう。仲間のロボットも、それを認めるだろう。富士山はただそこにあるだけで、美しく、崇高だ。それで何の不満があろうか。
人間とは何か
マーク・トウェイン 作
中野 好夫 訳
岩波書店(岩波新書)