ベストセラー学者本を先取りした鴎外の哲学小説『かのように』

哲学,文学,青空文庫

 本作『かのように』は、妙な題名であるが、まさに題名どおりの問題をテーマにした「哲学小説」ともいうべき森鴎外の作品である。筋そのものは、洋行後に歴史家になろうとしている主人公が、学問上のスポンサーである子爵たる父親との間で思想上の衝突を避けるにはどうしたらよいか、という実に女々しいものなのだが、その思想上の衝突を何とかしようとする考えこそが「かのように」なのである。

神話は歴史ではない

 問題は、こうである。歴史を書こうとすれば、それは歴史の始まりから書くことになる。しかし、日本の場合、それは神話であって歴史ではない。しかし、世間の皆が歴史であると信じているところでそれは歴史でないと暴いてしまえば、危険思想だと取られる。このようことは、前にも後にも、実際に日本で何度も起きたことだ。さりとて、それを歴史として書くことは、誠実な歴史家のすることではない。
 そこで主人公が考え出したことは、それを歴史である「かのように」書くことだ。それは、西洋人の一部の層が宗教について行っていることである。宗教を頭から信じているわけではないが、適切な神学の助けを借りれば、それが社会で一定の役割を果たしていることは理解できる。だから、信じてはいないが理解はする。そこに穏健な思想が出来上がる。それと同じことを日本の歴史についてやろうとしたわけだが、それでもやはり軋轢は避けられない。どうしよう……。

「かのように」哲学

 本作の「かのように」哲学は、直接には歴史認識を対象としている。本作でのその評価は、必ずしも芳しいものではない。しかし、その大本にある考え方には、なかなか捨て難いものがある。例えば、

自由だの霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾っくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。

 その他、宗教はもとより数学でも自然科学でも、「事実として証拠立てられない或る物を建立している。即ちかのようにが土台に横わっている」と本作は言う。実際、これらの「かのように」は、やむを得ない代替物ではない。まさに「かのように」を信じ込んでいること、そうではないと言ってはならないことに、その核心があるのだ(「人権」を考えてみれば分かる)。

ベストセラー学者の「かのように」

 このような考え方は、どこかで聞いたことがあるなと思っていたら、ベストセラー学者ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』にあったものだ。ハラリはこれを「虚構」あるいは「共通の神話」と呼ぶ。神も、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も、「人々が創作して語り合う物語の外に存在しているものは一つとしてない」のだが、これが人類繁栄の基礎をなす集団化や社会化を可能にしたのだと喝破した。
 ハラリ先生の言説を知った時は、さすがに鋭い指摘をするものだと感心したものだったが、実のところは、その100年も前に日本のインテリ小説家が小説に仕立てていたわけだ。もっとも、「かのように」哲学そのものは、ドイツの哲学者ファイヒンガーの説であり、鴎外のオリジナルではないようであるけれども。


かのように
森 鴎外 作


本作は作者の短編集や全集にも入っているが、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card678.html)の方が確実である。


サピエンス全史 上/下
ユヴァル・ノア・ハラリ 著
柴田 裕之 訳
河出書房新社

書評

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