漱石の生涯の思索の結晶『私の個人主義』

哲学,文学

 文豪漱石は、講演の名手でもあったという。本書『私の個人主義』の中にも、「紆余曲折の妙がある」という他の講演者による評が出てくる。実際に読んでみても、誰にでも分かる日常の例(かなり下世話なものまで)から初め、軽妙洒脱に話を展開させ、深遠な結論にまで持っていく。どこまで本当かは分からないが、簡単なメモだけで話しているというから、相当な腕前だ。
 本書には、漱石の講演記録に手を加えた評論のうち、表題作をはじめ、個人主義的なモラルや西洋文化の受容等に関連するテーマのもの計5編が収められている。時期的には漱石の晩年、修善寺の大患の後、「行人」や「心」、「道草」の執筆の前後に当たる時期である。小説の中で触れられる思想と関連づけてみるのも面白いだろう。

講演で聴衆が持って帰るもの

 管理人は、しばしば講演をしている知人から、こんな話を聞いたことがある。「こちらが一生懸命話をしても、聞く側の頭にはほどんど残らない。一つの講演で、一つのメッセージでも持って帰ってもらえれば御の字だ」。確かに、そうかも知れない。そして、その「一つ」が講演者が力を込めた肝心の話であれば良いのだが、実際はそうでもない。管理人も、本題とはあまり関係ない話がかえって印象に残ることがある。
 それはそれで良いのかも知れない。以下は、本書で印象に残ったことである。

漱石の覚悟を示す「道楽」

 まず、「道楽と職業」での「道楽」という言葉である。これは、漱石が、科学者、哲学者、芸術家など、あくまで自己を本位で行う仕事のことを、(自己を曲げて)他人のために行う「職業」と対比するために使った言葉だ。一見、漱石一流の諧謔でことさらに下卑た言葉を使ったようでもあるが、自身が生粋の「道楽」者(小説家)であった漱石の覚悟の現れであるようにも思う。
 漱石は、本物の「道楽」者について、「乞食と同じ一生を送り」、「常に物質的の窮乏に苦しめられて」と言い切っている。漱石自身は当時、朝日新聞社に属していたのだから、企業や大学に収まるくらいはセーフなのだろうが、パトロンの庇護下に入るようなのは堕落の範疇なのだろう。(あまり流行らなくなったが)その現代版とも言えるメセナはどうだろうか。これも、漱石から見たら紐付きに見えてしまうだろうか。

金で「人の魂を堕落させる」

 次は、「私の個人主義」で、将来、人の上に立つであろう学習院の学生に向けた3つの論旨のうちの一つ。金を振り蒔いて「人の魂を堕落させる道具とする」ようなことをしてはならい、である。これは、論旨の(うちの最も重要な)一つである個性の発展の阻害に絡めて挙げているのだが、金の最も悪い使い方、と見ることもできよう。金は良いことにも使えるが、たくさんの悪いことに使うことができる。遊興に消費するとか、賄賂に使うとか……。
 その中でもとりわけ酷いのが、人の精神を歪めることに使うということだ。しかも、これには特有の怖ろしさがある。金と並べて挙げられている権力が悪く使われる場面は、直接目に見えるのが普通だ。しかし、金の場合は、「食っていくためには仕方がない」とか「家族のためだ」というように、少しづつ、見えない形で、使う方も使われる方も気づかないうちに、精神を掘り崩されてしまうことがある。


私の個人主義
夏目 漱石 著
講談社(講談社学術文庫)

書評

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