あえて確率を追求しない合理性『人はどこまで合理的か』

哲学,心理

 人間の直感がかなり非合理にできていることは今や常識と言っても良いが、中でも確率に対する直感はかなり怪しい。とりわけベースレート(ベイズ理論の事前確率に相当する)を考慮に入れないことは、極めて広く見られる誤謬であるらしい。日常の直感ばかりでなく、相当に合理的な思考の産物に思える「エビデンスに基づく〇〇」ですら、この見落としがある。ベイズ理論によれば、エビデンスはそれだけで片が付くような代物ではなく、事前確率を修正するための材料にすぎないのである(エビデンスで調整された事後確率が新たな事前確率となるのだから、信頼できるベースレートは半ばエビデンスで構成されているとも言えるのだが)。

 このベースレートは、ビッグデータによる予測などの文脈でしばしば物議を醸している。直接的なエビデンスだけでなくベースレートを考慮した方が予測の精度は上がるのだが、ベースレートの利用はしばしば差別の再生産につながるからである。ここで合理的な思考は行き詰まる、ように見える。しかし、そうではないのだ。行き詰まるように思えるのは、合理性イコール高精度の予測と考えるからであるが、この等式は成り立たない。そもそも合理性とは、目的を達成するために知識を利用することであり、予測における目的は精度の向上に尽きるものではない。その外側には公正というより大きな目的、より高い価値があり、そのためには、あえてベースレートを考慮しないことがより合理的だと言えるのである。
 実は試験などもそうである。単発の試験の結果だけでなくある種のベースレートを考慮した方が、学業や仕事への適性はより高精度で測ることができるはずである。しかし、そういうことは行われていないし、それを誰も不合理だとは言わないのである。


人はどこまで合理的か 上/下
スティーブン・ピンカー 著
橘 明美 訳

書評

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