AIに政治は任せられるか『訂正可能性の哲学』

哲学,社会

 これは数ある論点のうちの一つにすぎないのだが、人工知能民主主義(あまりに複雑になった世界においては、貧しい知能しか持たない人間を政治から追放し、意志決定を人工知能に任せるべきだとする政治思想)について、本書は皮肉かつ適切な指摘をしている。曰く、

[人工知能民主主義のイデオローグ的な論者たち]が主張したのは、要は、人間には人間の限界を超える技術を生み出す力があるということである。彼らの人間批判は、その点で人間の知の可能性への強い信頼に支えられている。だとすればそれを過剰な人間信仰と呼んでも人間中心主義批判と呼んでもかまわないことになる。重要なのは、彼らがともに、人間にはとてつもなくすごいことができると確信していたことだ。

 そもそもシンギュラリティなる発想が、未来という最も不確かなものに対して外挿に外挿を重ねた怪しげなものである。なるほど、貧しい知能しか持たない人間が作った高級算盤程度のものでも、貧しい知能しか持たない人間を超えることは大いにあり得る話である。しかし、それが際限なく進化していって、あらゆる問題を解決できるようになる(そういうモノを創り出せる)という話になってくると、高慢も甚だしい。こうなると、100年か200年前の西欧に見られた神の定めた栄光に向かって進化していく人間、という類の思想への先祖返りにも思える。
 AIは、少なくとも今ある類のAIは、大いに便利だが取扱注意の道具であり、刃物や貨幣や原子力などと同類のものである。そして、刃物から原子力に進むにつれて、便利さよりも危険の方が増してきたように、AIについてもそちらに注意を向ける必要があるだろう。AIに政治を任せるようなことは、高IQサイコパスに政治を委ねるに等しい行為である。AIに正しい「解」など導けず、そもそも政治に正しい「解」はない。考え得る限り、最悪の組合せである。


訂正可能性の哲学
東浩紀 著
ゲンロン

書評

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