モノの消滅、人の消滅『密やかな結晶』
本作『密やかな結晶』は、当代一流のストーリー・テラーである作者の比較的初期の作品である。少し前にブッカー国際賞の候補になったのは、作者の作品としては珍しく社会目線が強い作品である故か。もっとも、舞台である架空の島から次々とモノが消滅していくという異様な世界をまったくの個人目線で描き切ってしまう本作にちりばめられた社会目線は、読み方が一様ではない。英訳のタイトルは「The Memory Police」だが、少し違うのではないかという気がする。
消滅に秘密警察は要らない
本作には全体主義社会の憲兵を思わせる秘密警察の描写がふんだんに出てくる。これを強調すると、本作は、権力による管理と強制が主題をなす、オーウェルの『一九八四年』のようなディストピア小説という括りになりそうだが、そうではないように思う。秘密警察は、R氏が消滅したモノと共に逃げ込んだ特殊空間(隠し部屋)を必然化する舞台装置といったところで、それほど重要ではないと思うからだ。
消滅は何か得体の知れない原因でやってくるもので、それに対する記憶と関心を失った人々が自発的に処分することで完成する。秘密警察は威力を使ってそれを促進しようとはするが、それだけである。むしろその矛先は消滅すべきモノではなく、消滅を受け入れない異物(たまたま残ったモノや記憶を失わない人々)に向けられている。そして、その異物にも消滅の流れを食い止めるほどの力はない。消滅は秘密警察なしで、自らを貫徹できる力を備えているのである。
かけがえのない人工物たち
一読して気づくことであるが、本作で消滅していくモノには人工物が多い。これは、自然をやたらと持ち上げて、その反面、人工物は不自然で(トートロジーだ)、恣意的で(そんなことはない)、程度が低い(なぜだろう)と考えたがる、現代の浅薄な思想(管理人はこれを「大自然教」と呼んでいる)を拒否しているようで、痛快に思える。だが、それも当然と言えば当然のことだ。
人の生に深く食い入り、人と人とを強力に結びつけているものは、むしろ人工物だからだ。リボン、鈴、切符、ラムネといった雑貨ですらそうした特質を備えている。あるがままの自然物は、そうではない。実際、本作で消滅する自然物の代表である鳥と薔薇は、あるがままの自然物ではない。鳥は鳥カゴを、薔薇は薔薇園を介して、人間と結びついている。だからこそ、その消滅が人々の心に衰弱をもたらすのだ。リボンや鈴や切符やラムネの消滅は、人間の消滅の序曲だったのだ。
リアル世界でも消滅は起きている
本作で起きる消滅は、いかにも奇妙な出来事である。しかし、よく考えてみれば、消滅はリアル世界でも頻繁に起きている。例えば、本作ではフェリーが消滅したが、リアル世界でも人の移動手段としての船はほとんど消滅したも同然である。違いは、本作では人々は直ちに記憶や関心を失うが、リアル世界では徐々に、場合によっては1世代か2世代かけてそうなっていくということだ。
もう一つ違いがあるとすれば、本作で消滅するモノには代わりがないことだ。「古いものが朽ちていく速度と新しいものが作られる速度の差は、広がるばかり」の島で、人々の心は衰弱し、社会が空洞化してゆく。リアル世界の消滅はたいてい、新しいものへの置き換えによって起こる。船の代わりの機能に偏した飛行機や橋やトンネルが、隙間をすべて埋めてくれるかどうかは別にしても。
本作は遂にすべてが消滅したかの結末で終わるが、リアル世界でもすべてが消滅してしまった古代文明は少なくない。衰弱や空洞化を拒否するならば、R氏のように何かを保存するだけではだめなのだろう。良くも悪くも動き続けるしかないのであろう。こうなってくると、本作のメッセージからは離れてくるのだろうが。
密やかな結晶
小川 洋子 作
講談社(講談社文庫)