ヘルマン・ヘッセの思想と精神と芸術『ガラス玉演戯』
本作『ガラス玉演戯』は、ヘルマン・ヘッセの最後の大作、ノーベル文学賞受賞の決定打となった作品だ。本作の中心にあるのは「ガラス玉演戯」、すなわち、人類が生み出した科学と芸術の内容と価値を、高度に発達した神秘の言葉で表現し、相互に関係づけ、画家やオルガン奏者がするように行う演戯である。本作は、その演戯名人となった主人公クネヒトの伝記の形をとっている。
小説であるから筋を追っていくことは難しくないのだが、全体がヘッセのあらゆる思想を投入したようなシロモノで、正しい読み方(というものがあるとして)をしているのかどうかすら良く分からない。見かけは易しそう、実は難解、という典型のように思う。今回は、その分からないことを書いてみる。
ガラス玉演戯とは何か
まずは、ガラス玉演戯とは何なのかだ。もちろん、架空の演戯だから、具体的にどんなものなのか分からないのは当然だが、その位置づけも良く分からない。あれだけ書き込まれている以上、ヘッセが生涯追い求めた芸術の象徴のように読みたくなる。しかし、ガラス玉演戯は、出来上がっている精神の産物を材料とするもので、演戯以外には新しいものを生み出さない(ように思われる)。むしろ「材料」に当たる詩や小説を追求してきたヘッセが、あえてあのような演戯を創作したことに、何か意味があるのだろうか。
あるいは、単に俗人にとって「カスターリエンのものの中でなくてもすまされる随一のもの」であることを強調したものか。クネヒトが最後の書簡の中で「ガラス玉演戯のないカスターリエンは考えられますが、真理を敬わないカスターリエン、精神に誠実でないカスターリエンは考えられません。」と述べていることからすると、ガラス玉演戯は高度な人間精神の発露の通路にすぎず、それ自体はさほど重視されていないのか。
高度の人間精神はどこで花開くのか
重要なのが高度の人間精神なのだとすると、より重視すべきなのはその殿堂であるカスターリエンということだろうか。しかし、そのカスターリエンがことさらに俗世から隔絶され、俗世と対決させられているのはなぜだろうか。高度の人間精神が、純粋培養の理想郷で花開く、というのは一見もっともらしいが、実際にはありそうもない寓話としか思えない。
もっとも、カスターリエンの精神の体現者とも言えるクネヒトは、俗世の論理あるいは俗世の現実を知り、自身の立場と引き比べて葛藤し、俗世と関係を持とうとする。無関係ではいられないと考える。そうだとすると、カスタリーエンは、理想郷のように描かれてはいるが、俗世との二項対立の中でその性質を際立たせられた理念型ということだろうか。その閉塞したところが、ガラス玉演戯と対応しているのかも知れない。
カスターリエンは俗世を救えるのか
実際、カスターリエンには、孤立化と衰退の徴候があったように描かれている。それはまず、内部から、腐敗や慢心としてやって来る。これは分かりやすい。しかし、本作で強調されているのは、外部すなわち俗世から来るものだ。戦争のような俗世の混乱、カスターリエンに対する俗世の人々の意識。いかに高貴であっても、いかにエリートであっても、カスターリエンは、その存立を俗世に負っている。
クネヒトがカスターリエンを去るのも、そうした危機感が理由の一つとなっている。俗世での教育に当たりたい、そこに理想を行き渡らせたい、ということのようだ。しかし、いかに高邁な精神の持ち主であるとしても、クネヒトのようなカスターリエンしか知らない人間が俗世で教えることが、いかほどの解決になるのだろうかとも思う。
どうも良く分からないと思えてしまうのは、あまりに純粋に描かれたガラス玉演戯やカスターリエンに違和感を覚えてしまうからだ。複雑怪奇で困難で矛盾している俗世を徹底的に描いた作品は数多あるが、本作ほど俗世から距離を置いた(ように見える)作品はあまりない。管理人が俗世にシンパシーを感じているだけかも知れないが、書かれていることを額面どおりに受け取って良いのかどうか躊躇してしまう。
ガラス玉演戯 上/下
ヘルマン・ヘッセ 著
高橋 健二 訳
新潮社(新潮文庫)