摩訶不思議な超難解本『論理哲学論考』

哲学,数理

 どうしてこの本を買ってしまったのか、良く分からない。おそらく、何か別の本で言及されていたので(あちこちで言及されてはいるが)、気になって買ったのだろう。買った以上は、読んだ。読んではみたが、何のことやら分からなかった。当然と言えば当然である。そもそもこのような(これほど難解な)本が一般向けの「文庫本」で売られていて良いのだろうか、とすら思ってしまう。

箇条書きの哲学書

 本書『論理哲学論考』は、ウィトゲンシュタインが生前に著した唯一の書、これによって哲学問題をすべて解決したと信じた書である。彼は哲学者であるから、本書も哲学の範疇の本ということになっている。しかし、内容は哲学と論理学と得体の知れない世界認識を合わせたようなもの、しかも項番が振られた箇条書き。奇書と言っても良いような特異な本だ。箇条書きされた内容は、あまりに簡潔で、ほとんど理解の手掛かりを与えない。翻訳だから書かれている日本語は分かるが、上滑りの理解すらできない。
 冒頭、「1 世界は成立していることがらの総体である」、「1・1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」で始まる。「世界」とは何か。これは後の「1・13」や「1・2」で分かる仕掛けになっている。では、そこで出てくる「論理空間」や「事実」とは何か。「論理空間」とは可能性の総体、「事実」はその中で現実に起こっていることがらのようだ。「もの」の方は「2.01」で定義されるが、新たに「事態」や「対象」を理解する必要が出てくる……。解説と訳注、あるいは他の解説書を手掛かりに、読み進める。一つの文章(項)、一つの用語、部分的には何を言わんとしているのか理解できたつもりになっても、本書で展開される全体の構造物が何であるのかは余計に分からなくなってくる。

数多の『論考』の行方

 本書には、管理人が読んだもの以外にも、多くの日本語訳が出されている。文庫本も複数ある。世界には、英訳も仏訳も、おそらくは数十か国語に訳されているのだろう(かなりの学術用語が揃っていないと翻訳し切れないだろうから、意外に少ないかも知れないが)。読者、すなわち本書を買ったり借りたりした者は、何十万か、何百万かいるに違いない。
 しかし、その中で一体何人、本書を理解できた者がいるのだろうか。ほとんどは、管理人と大同小異だろう。ごく一握りの専門家を除いては、理解したつもりになることすらできないだろう。意地悪く言えば、そうした専門家ですら、どこまで分かっているのか疑わしい。何しろ、師匠であるバートランド・ラッセルが書いた序文(岩波文庫版に解説の一つとして収録されている)に、ウィトゲンシュタイン自身が「きわめて多くの箇所に、私は完全には同意できない」と不満を述べているくらいだ。

哲学の意味と『論考』の意味

 その師匠ラッセルの業績もまた、確かに手に負えない。実際に見たことはないが、『プリンキピア・マテマティカ』を理解できるのは、ほんの一握りの専門家に限られるのだろう。もしかすると、それも怪しいのかも知れないが、少なくとも共著者のホワイトヘッドがいる。それに比べると(比べても)、ウィトゲンシュタインの業績は何だろうか。実際のところ、本書は本当に意味のある体系をなしているのだろうか。
 まさか「無意味」であるということはないのだろうが、むしろ荒削りの構造物に対して、専門家一人ひとりが(違った)意味を付与しているのではないか。そうすると、意味を付与すべくもない数多の大衆読者にとって、本書は一体何なのかという気もしてくる。「難しいもの」、「分からないもの」をありがたがる風潮なのだろうか。それもあるかも知れないが、それだけのことであるずはない。本書は、内容以前にその存在が摩訶不思議な本である。


論理哲学論考
ウィトゲンシュタイン 著
野矢 茂樹 訳
岩波書店(岩波文庫)

書評

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