苦悩する孔子とその弟子たち『論語物語』
本書『論語物語』は、『次郎物語』で有名な著者の下村湖人が、『論語』の主な教えを同じ登場人物で物語風に再構成して見せたもの。『論語』の精神が分かりやすく示されていて、オリジナルの『論語』やその解説を読んだだけではいま一つピンとこないところが生き生きと描かれている。本書を読んで初めて『論語』の言わんとするところが分かった、というような評が少なくないようだ。
管理人も初めはそうだったのだが、読み進めていくうちに、『論語』はもちろんのこと『論語物語』もまるで想定外であっただろうところに考えが及んでしまった。以下、正直な感想である。
弟子と師の苦悩
本書には、苦悩する弟子がたくさん現れる。実際はどうだったか知らないが、本書に現れる弟子たちは、師である孔子と違ってまだまだというふうに描かれている。しかし、そうは言うものの、一般人と比べれば相当に程度が高い、というか、そんなことまで気にしていては精神が持たないだろう、というくらいである。本書の最初に登場する子貢も、豊かになったことを驕るまい、という気の仕方をしていたことを孔子に指摘されてまだまだ修行が足りん、と反省するという始末である。
そういえば、孔子自身もまた苦悩する人であった。「不惑」は40歳であるから、それまでは苦悩して苦悩して人生も半ばにしてようやく辿り着いた境地だったわけである。そこのところは本書の最後の章に書かれていて、世間からは礼の大家だと言われながら、増長しそうな心と内心の不安を感じて、迷い苦しんだ。弟子ともども、オリジナルの『論語』よりかなり人間味が感じられる。それが本書の肝だろう。と、ここまでは素直な感動である。
心を見透かす孔子
いずれにしても、孔子と弟子たちでは、かなりレベルが違う。『論語』自体がそれを前提とした言行録になっているのだから当然である。そのギャップを埋めるための「鍵」となる教えが、1行1行に盛り込まれているという寸法である。ところが、本書を読み進めていくうちに、妙な気分になってきた。孔子と弟子たちの違いが、そうした「鍵」の積み重ね以外のところで示されることが多くなっているからだ。それは、孔子の「千里眼」である。
弟子たちは、孔子の時に明示の時に暗黙の言行に深い真理を読み取る。それを読む読者もまた、その深い真理に触れる。ところが、だんだんと弟子たちは深い真理に感心するよりも、その深い真理を体現する孔子の千里眼を怖れるようになる。孔子は、深い真理の教えからするとよろしくないことを考えている弟子の浅はかさを見抜いてしまう。それを怖れるようになる。それは大そう怖ろしいものに違いないが、そういうことで高みに昇っていく孔子は、周囲から少々浮いているようにも見えてくる。
現れなかった後継者
本書では、孔子は必ずしも弟子に恵まれなかったことになっている。実際は『論語』が2500年後の日本でも読まれているくらいだから、そういうわけでもなかったはずだが、ともかく本書によると、孔子が三千の門人中でわが道を伝えるべき人と期待したのは、唯一顔回だけだったということになっている。そしてその顔回が若くして死んでしまい、老いた孔子は真の後継者なしに寂しく人生を終えることになっている。
これはどうしたことか。教えが厳しすぎて、誰もついてこれなかったのか。千里眼で浮いてしまったのが災いしたか。それとも単なる不運なのか。孔子が政治の道で必ずしも成功しなかったのは、分かる。政治は徳だけでは務まらないからだ。しかし、志を同じくする儒教一派の狭いサークルでなら、徳だけあれば十分なのではないか。弟子たちには欠点もあっただろうが、それでも百八つの煩悩を二桁にすることが目標の管理人などとは大違いであって、何とも悲しいことである。結局のところ、あまりに高い理想というのは、人間には無理なのだろうか。
論語物語
下村 湖人 作
講談社(講談社学術文庫)
本作は、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001097/card42923.html)に入っている。