昔の日本文学と昔の海外文学
幸田露伴の『五重塔』の書き出しは、「木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用いたる岩畳作りの長火鉢に対いて話し敵もなくただ一人、少しは淋しそうに坐り居る三十前後の女、男のように立派な眉をいつ掃いしか剃ったる痕の青々と……」となっている。これは新字新仮名に直されているが、会話以外は文語文。講談調のリズムの良さはあるものの、正直、短いから読み切れるという感じだ。
他方、ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』の書き出しは、「アレクセイ・カラマーゾフは、この郡の地主フョードル・カラマーゾフの三男として生まれた。父親のフョードルは、今からちょうど十三年前に悲劇的な謎の死をとげ、当時はかなり名の知られた人物だった……」だ。作品はいかにも長大だが、文章はごく普通の現代文で、読むのに骨は折れない。
翻訳が時代の差を吸収する
ところが、書かれた時期を比べると、『五重塔』は初出1892年、『カラマーゾフの兄弟』は初出1879年で、実は後者の方が古い。このような逆転現象が起こるのは、言うまでもなく、後者は翻訳だからだ。オリジナルの雰囲気を尊重して、訳文で時代がかったものにすることはできるが、普通はそこまでのことはしない(結果的に「格調高く」なっている場合はあるが)。むしろ、読まれる時代に合わせる方が普通だろう。後者の「いま、息をしている言葉で」を標榜している光文社古典新訳文庫などは、新しすぎて賛否両論を引き起こしているくらいだ。
つまり、海外文学の場合、ドストエフスキーはおろか、シェイクスピアでも、ホメロスでも、要はいくら古くても、翻訳によって時代の差を吸収してしまうことができる。ところが、日本文学の場合、文体がいらく古くても、文語文であっても、日本語は日本語、日本人なら原文で読むべきだ、という感覚になるようだ。しかし、実際のところ、読み手の能力はますますそのような理想から離れてしまっている。実際に読めなければ意味がないし、読むためにわざわざ勉強するくらいならむしろ英文でも読んだ方が、となってしまう。
日本の文学や随筆でも
それでも、さすがに平安時代に書かれた『源氏物語』ともなると、現代人には手が出せないからなのか、あるいは現代語訳自体が文学的興味をそそるのか、与謝野晶子、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴と一流の訳者による現代語訳が揃っている。管理人もその昔、与謝野晶子訳を(全部ではないが)読んだことがある。学校の授業ではつまらなく感じたが、それとは違う世界がそこに広がっていた。
文学系ではない、福沢諭吉の『学問のすすめ』だったらどうだろうか。これも読めなくはないが、少々辛い。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で始まる出だしの部分を暗唱するなら原文でなければならないだろうが、内容を把握するだけなら現代語訳があれば重宝だ。実際、最近では、現代語訳も幾つかあるようだ。教養レベルが低下する、大切な文化伝統を失うと嘆く向きはあろうが、読まれずにすべてを失うよりはマシではなかろうか。
五重塔
幸田 露伴 著
岩波書店(岩波文庫)
カラマーゾフの兄弟
フョードル・ドストエフスキー 作
亀山 郁夫 訳
光文社(光文社古典新訳文庫)
学問のすすめ
福沢 諭吉 著
岩波書店(岩波文庫)
『五重塔』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000051/card50351.html)と『学問のすすめ』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card47061.html)は、青空文庫にも入っている。もちろん、原文であるが。









