遠い昔の遠くない記憶『青べか物語』

文学,青空文庫

 本書『青べか物語』は、作者が1年半ほど住んでいた浦粕での人や事件を題材にした小説である。その1年半とは1928年頃のこと、浦粕とは現在の浦安である。実は管理人も30年以上も前にその近くに住んでいたことがあるのだが、本作に出てくる浦粕とは比べ物にならない。片や東京の衛星都市、片や舟で行くド田舎である。この違いにまず驚かされる。人や事件も失礼ながら昔のド田舎にどっぷり浸かったアクの強さが際立っている。作者も最後には「こんな田舎にいてはだめだ」と逃げ出す有様だ。

「白い人たち」の日常

 実際にはいろいろと脚色が加えられているはずだが(後に訪れた際の「三十年後」で少し触れられている)、本作中ではここに書かれていることは「事実」なのだと繰り返されている。そのような中でひときわ目を惹くのが、「白い人たち」に出て来る石灰工場である。貝殻を焼いて作る石灰の粉で文字通り、従業員は皆真っ白になってしまう。
 過去を持つらしい彼ら(彼女も含まれている)は日々、半裸で真っ白になりながら黙々と作業する。そういう、異様な状況の中でこれといった起伏のない生活中で、異様な事件が起こるのだが、むしろ事件よりもその背景をなす異様な状況での起伏のない生活の方が注目される。現代なら到底許されない労働環境なのだが、この時代のこの場所には、あるいはそれ以外にも、こうしたところはあったのだろう。

「大人子供」の世界

 浦粕の子供は皆、悪ガキである。純真な子供などという大人の創作物はそこにはいない。いや、純真であればあるほど、大人の純真でない面を真綿が水を吸収するように、吸い上げるのだろう。そうして出来上がったのが、大人顔負けのこまっちゃくれ悪ガキ共である。作者の数少ない味方である長少年も、そのような悪ガキの一人であり、鼻柱に皺をよせ、皮肉たっぷりに周囲の大人共の動静を論評している。
 ところが、である。そんな長少年も、映画の中の探検活劇が作り物であることが分からない。映画館の中で、探検家の活躍や危機に一喜一憂し、大声で叱咤激励する。大人のある面だけが原材料となった悪ガキは、現実ベタベタの具体的なモノには滅法強いが、そこから一歩離れると途端に迷路に入るのだ。これは管理人にも覚えがある。何かの番組での、タイムマシンがらみの「それらしい話」が現実と区別できなかったのだ。

30年後の邂逅

 本作は相互に関連があったりなかったりする計30の小品の連作になっているが、これに加えて8年後と30年後に浦粕を訪れた探訪記が加わっている。こういうのは「夢」を壊しかねないので、ない方が良いのではと思っていたのだが、ある個所を読んで考えを改めた。そこにこそ作者の「夢」のようなものが感じられたからだ。30年後、作者が件の長少年――これだけの年月が経っているから普通に立派な大人になっているのだが――に会った件だ。
 長少年の方は作者のことが分からない。子供の記憶は子供の世界がもっぱらなのだろう。が、作者には端々からこれがあの長少年であることが分かる。そんな感慨に浸りながら、水をかぶった畦道で長少年におぶられていた作者は、長少年のふらつく足元を感じながらも「長といっしょに水の中へ転倒するならそれもまたよし」と思う。これを読んで泣きそうになってしまった。この感慨はAIには分かるまい。


青べか物語
山本 周五郎 作
新潮社(新潮文庫)


本作は、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57495.html)に入っている。

書評

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