名探偵は要らなかった?『パノラマ島奇談』
本作『パノラマ島綺譚』は、江戸川乱歩としては長目の中編、奇想天外なある方法で無人島に自身の芸術の粋を集めた「パノラマ島」を築くという狂気を描いたものだ。ミステリーとしてはその「方法」のところがメインなのかも知れないが、本作をただのミステリーに終わらせない特異なものとしているのは、正に「パノラマ島」の方である。「妻」との最初で最後の「パノラマ島」巡りは圧巻である。
名探偵の役割とは
まずはミステリーの方から。本作を読んでいて思い当たったのは、名探偵(本作では明智小五郎は出てこないが北見小五郎が出てくる)の必要性ということだ。なぜ名探偵が要るのか。それは、ミステリーである以上、絶対に解き得ないはずの謎を読者の前に説いて見せる必要があるからだ。もし一見謎に見えたものが自然の経過で明らかになってしまえば、それも謎解きには違いないが、謎が浅く見えてしまう。
謎解きが誰か(犯人?)の落ち度でなされるなら、かなりのご都合主義である。もし落ち度がなければどうなっていたのか、犯人はまんまと逃げおおせたのか、という疑問を残してしまう。そこで圧倒的な謎を保ったまま、圧倒的な能力の名探偵を対峙させる、というのがジレンマを解消させる定番の手法になったのだろう。ただ、時代劇で自らの悪事を分かりやすく解説してしまう悪代官と同様に、少々安直な感は否めない。
本作の名探偵北見小五郎
本作ではどうだろう。本作では、妻の殺害を果たした後、唐突に名探偵北見が現れる。だが、最初から「方法」が示されていた本作では、もともと謎解きは存在しない。その意味では、謎解きではなく悪事暴きというレベルになっている。それも過去のボツ小説という主人公の落ち度(?)まで使っていて、僭越ながら、ミステリー的にはやや不出来なのではという気もしなくはない。
結末も、名探偵にやりこめられて仕方なくというのでは、世俗の規範に縛られていたことになって狂気の芸術家の名が泣こうというものだ。むしろ芸術上の観点から人の死と美が結びつき、人間花火で美の完成を図った、くらいの方が狂気が増したというものだ。島の芸術は荒唐無稽にすぎるところはあるものの、芸術の黒い部分を垣間見させる、芥川龍之介の『地獄変』の大衆小説版になったかも知れない。作者ほどの筆力があればそこらあたりを余すところなく展開できたはずではないかと、無いものねだりをしてみたくもなる。
パノラマ島は芸術の島
最後にようやく「パノラマ島」の方だが、これはいかにも奇矯だが主人公にしてみれば芸術的ユートピアのようなもの。そこに至る「方法」には問題があったし、出来上がりは随分とグロテスクなものになったし、最後は哀れなものであったが、もし彼が悪事(と言っても人を殺めたりしたわけではないのだが)に手を染めない普通の方法でそれを実現できていたとしたら、それはそれで大したものだったのだが。
世の中には宗教熱や経済熱に突き動かされたユートピアに事欠くことがない。その中にはプラトンやトマス・モアやが構想した一見立派な思想上のものから、現実にしばしば見られた集団農場や集団入植、果てはジョーンズタウンのようなものまであるが、傍から見れば百発百中でディストピアである。特定の価値に捕らわれてしまうからであろう。これらは人類の運命を託すくらいの大真面目だったのだろうが、副作用も凄まじい。それに比べれば、自己満足だけの「パノラマ島」は大分マシである。
パノラマ島奇談
江戸川 乱歩 作
春陽堂(春陽文庫)
本書は、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card56651.html)に入っている。