無意識の高等思考とは何か『数学における発明の心理』

心理,数理

 本書『数学における発明の心理』は、読んで字のごとくの心理を扱うものではなく、高度の数学的課題がまるで考えていない時に解けた、あるいは夢の中で解けた、という類の一見すると常識に反するような数学的発明(発見)の心理に関するパイオニアのような本である。原著の出版は1945年、近年の脳科学の発展からすれば、このあたりのことはもっと正確に分かっていそうだが、自身の感覚と照らし合わせながら読んだ時のある種の納得感は、数十年が経っていても失われていない。

考えていないときに解けるとは

 本書には、乗合馬車の「ステップに足をかけたとたん、私に着想が浮かんだ」、「海岸の崖を歩いていると着想が浮かんだ」といったポアンカレの例が多く引かれている。つまりは無意識で、あるいは半意識の状態にありながら、数学的課題の解決がなされてしまうということだ。その後の脳科学によれば、むしろ意識の方が付随物かも知れないというのだから、確かにあり得ることではある。しかし、単純な課題ではなく集中思考を要するシステム2の極限のような数学的課題で起こるということが、何とも奇異に見えるわけだ。
 つまり、無意識下で起こっている「思考」は、数学的課題の思考といったものまで含んだ非常に広大なもので、むしろ意識の方が氷山の一角であるかも知れないのだ。実際、まさに集中的思考の結果として何かの発見がなされる場面でも、その発見の場面を逐一意識していたり、その論理的ステップを説明できたりするわけではないから、結局のところはある瞬間に「ポン」と出て来るわけだ。

無意識下での発酵

 さて、実際にこのような無意識的思考があるのだとしても、そのための材料の仕込みや整理は意識下(それも無意識から出たと言われればそれまでだが)で行われるもので、これがなければ始まらない。温泉宿でただ寝ているだけで凄いインスピレーションが湧いてくることは、断じてない。逆に言えば、それがあれば、徹底したそれがあれば、何かが湧いてくることはあり得る。管理人の場合、数学的発見に相当するような高度なものは湧いて来ようもなく、実際にも湧いて来たことはないのだが、まったくゼロかと言えばそうでもない。
 例えば、仕事上の情報を頭に溜め込んで、十分に意識的思考を働かせた後、しばらくそれから離れていると、良く考えたはずの内容に矛盾や誤りがあったことに突然気づくことがある。また、それを期待して、ひとまず仕上がったと思った後に、意図的に寝かすこともある。もっとも、「インスピレーションで気づいた」と思ったその誤りが、実は最初の意識的思考の中で考慮されていて、「よくぞ気づいていたものだ」という程度の低い自己満足で終わることもあるのだが。

言語や記号は必要なのか

 数学的発見のための思考に、言語やこれに代わる記号は必要か、というのは本書の主要テーマの一つである。無意識の思考に言語が介在しないのは当然であろうが(検証のしようもないが)、意識的思考の場合も稀な例外を除いて必要ないというのが大方の見方のようである。言語なしに無意識の思考が可能なら、意識下の思考も言語なしに可能だろう。
 実際問題、何か思いついたとしても、それを言語化することに困難を覚えることが多いくらいなのだから、言語より思考が先に来ていることは明らかだろう。著者はそれを「心象」であるとするが、管理人の場合は「心象」にすらならない「概念感覚」とでも言うしかない感覚がある。ただ、言語が思考に役立たないかというと、そうではなく、おぼろげな「概念感覚」を明確にするために、言語はイメージや記号と同様に役に立つ。また、思考の最終アウトプットが言語である場合、言語を使って思考の明確化を図ることはたいへん有益であり、また必要なことである。


数学における発明の心理
J.アダマール 著
伏見 康治,尾崎 辰之助,大塚 益比古 訳
みすず書房

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書評

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