無政府主義者の科学、なのか?『科学の不思議』

哲学,科学,青空文庫

 本書『科学の不思議』の著者は、アンリ・ファーブル。『昆虫記』で有名な、あのファーブルである。内容はその著者や表題から想像できるとおりで、少年少女向けに、さまざまな科学上の疑問に答えてゆくというもの。
 しかし、ここで注目したいのは、本書の訳者である。大杉栄と伊藤野枝が訳者に名を連ねている。二人は事実上の夫婦であったが、甘粕事件で憲兵隊に扼殺されたという無政府主義の大立者である。伊藤の方はもともと文筆活動も行っていたから、本書を翻訳するというのもそれほど不自然な話ではない。しかし、ここに大杉の名前があるのは、どうにも解せない(実は『昆虫記』も訳しているのだが)。本書の内容には何か無政府主義に通じるものがあって、年少の読者に無政府主義のサブリミナル・メッセージを送ろうという狙いでもあるのではないか。

分かりにくい無政府主義

 とは言うものの、無政府主義というもの自体が良く分からない。組織化された既成の権力体を排することを掲げ、そのためには暴力をも辞さない、というような、共産主義のさらに向こう側にあるおどろおどろしいもの、というイメージがあるのだが、その先が判然としない。さすがに権力を排しただけであとは各自が勝手に、という無秩序主義では非現実的というほかないが、どうやら、その後の構想が論者によってさまざまということらしい。
 もともと社会主義者だった大杉の場合は、労働組合を基盤とする下からの権力は認めるということのようだ。プロレタリアート独裁といった新しい上からの権力を指向する共産主義とは一線を画するものの、自由を標榜する割には相当な左傾思想ではある。逆に、その部分だけを考えれば、イメージほど他から隔絶された主義主張というわけでもなさそうだ。

本書の中の無政府主義

 そう考えた場合、本書の内容は彼らの主張にマッチするのだろうか。無政府主義の梃子にはならないまでも、それに反する内容だったら無政府主義者の名が泣こうというものだ。
 冒頭の「訳者から」には、意味深長な件がある。「一度此の不思議な世界の本当の姿を知りはじめたら、此の世の姿は全くちがつたものになつて来るでせう」。ここで不思議な世界というのは、あくまで科学の対象になるような自然の世界を指している建前であるが、既成権力から解放された世界と読むことはできないだろうか。「学問といふものは、学者といふいかめしい人達の研究室といふ処にばかり閉ぢこめておかれる筈のものではありません。誰れもかれも知らなければならないのです」。これも「学問」を「政治」に、「学者」を「権力者」に読み替えれば合点がゆく。
 内容ではどうだろう。蟻と比較して、「人間は自分が御馳走をたべれば、他の者もみんなやはりちやんと御馳走をたべてゐるものと思ふものがある。そんな人間の事を利己主義者と云ふのだ」というのは、大杉の思想傾向に近いものがあろう。牛馬を引き合いに出して、「此の世の中では、沢山の場所を取るといふ事が、一生楽しく過す事でもなければ、平和に住む道でもないのだ」というのも、権力階級に対する批判と読むことができる。ボロから書物が生まれることを引き合いに、生まれを恥じてはならないとして、「人間にはたつた一つの本当のえらさと、たつた一つの本当の貴さがある。それは霊魂の偉大と貴さだ」というのも、権力より個人に焦点を当てた言説と言えよう。

 とまあ、他にもいろいろ挙げることはできるのだが、やはり相当なこじつけ。無政府主義がどうこうより、ファーブルの考える穏当な思想の現れと考える方が当たっているだろう。

科学と技術と教育

 さて、脱線が本線のようになってしまったが、せっかくなので本書の内容も紹介しておこう。本書は、物知りのポオル叔父さんが、動物の寿命、湯沸、金属、毛皮、紙、電気、雲、雨、地球といった科学上の疑問(テーマ)について子供たちに語って聞かせるというものだ。全部で78章あるが、お得意の蟻や蜜蜂のような純自然の話ばかりでなく、印刷や機関車といった産業上の応用技術の話も少なからず入っている。
 このあたり、科学と技術はもともとは従妹同士の関係にあるはずだが、現代では守るべき自然と破壊する産業という二項対立の枠で理解する向きもないではない。ファーブルは意外にも、自ら工業に携わったこともあるらしく、本書では産業技術にも正当に目を向けている。無政府主義では、そもそも科学や産業の位置づけはどうなっているのだろう、という気もする。
 最後に、本書で印象的なのは、ポオル叔父さんの博識ぶり(そう創ったのだから当然だが)と子供たちの尽きることない好奇心(そう創ったのだから当然だが)である。本書で展開されているのは一種の家庭教育なのだが、公教育には現体制に沿った国民を養成するという役割が不可避的について回ることを考えれば、そこに教育の理想を見る人もいるだろう。そんなところが無政府主義者の心を打ったのかも知れない。


科学の不思議 前編/後編
ジャン・アンリ・ファーブル 著
大杉 栄,伊藤 野枝 訳
ゴマブックス(ゴマブックス大活字シリーズ)


上記はオンデマンド本である。青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001049/card4920.html)のものが手軽である。

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