年末恒例の読みさし本クリア

文学,歴史

 毎年、年末が近くなるとやっていることがある。その年に読み始めたが、読みさしのまま止まっている本を、まとめて仕上げることだ。昨年の場合は、アシュトンの『産業革命』(戦後の本であるが、思ったより産業革命の肯定面を重視するようだ)とチェーホフの『桜の園・三人姉妹』(これは再読、毎度のことならがラネーフスカヤにはイライラさせられる)だった。このブログで書くために気合を入れて読んでいたからか、2冊というのは例年に比べるとかなり少ない。
 読む場所や時間帯ごとに複数の本を同時並行で読んでいると、どうしても面白い本に引っ張られてそれほどでもない本は後回しになってしまう。面白い方の本を読み終わると、何となく「代わりに」新しい本に手を出してしまう。1年のうちに、そうして残った本が何冊かは溜まってしまうというわけだ。要するに、読みさし本は、読み始めるくらいには興味があったが、読み終えるほどには面白くなかった本、ということになる。

本を「身体に」入れておく

 そうした読みさし本を、なぜ年末にクリアしようとするのか。新年を新しい気持ちで始めよう、ということもあるが、やはり、曲がりなりにも読み始めるくらいに興味を持った本をひとまず「身体」に入れておこうというのがある。「頭に」ではなく、「身体に」である。よほど真剣に読まないかぎり、いや、よほど真剣に読んでも、本の内容が頭に入るのは、一瞬のことだ。一瞬はオーバーかも知れないが、まあ半年も経てば輪郭がぼやけてくる。数年経てば、少なくともディティールはほとんど消えてなくなるだろう(読んだことすら忘れていて驚いた、ということもある)。
 誰であったかは忘れたが、本を読むことはザルに水を注ぐようなものだと言った人がいる。少々品は悪いが、名言だと思う。もちろん、それだけで終わりということではなくて、水を注いでいるうちに、ザルの内側に「滓」のようなものが付いてくる。この「滓」こそが、本を読んだ効果なのだということだ。管理人のいう「身体に」も、この「滓」と同じようなものだ。「頭に」水が貯まるわけではないが、どこかに本を読んだ痕跡を残しておく。それを読みさしまでの記憶が失われないうちにやっておこうというのが、この年末の恒例行事ということだ。

「積ん読」と購入予定リスト

 もっと横着するなら、「積ん読」もまったく効果がないわけではない。本を買うという(大きな)一歩を踏み出して、環境に新しい要素を付け加えたことは、何がしかの意味がある。毎日、その本を見たり手に取ったりしながら暮らしていることは、それなしの生活とは何か違ってくるだろう。もっとも、「滓」の効果を得ようとするなら、実際に読む必要があるのだが、何しろ気になる本を大枚をはたいて買ったのだから、いずれ必ず読むことになるだろう。だから管理人は、本は買うものと決めている。
 さらに遡って、買う前の本はどうだろうか。もちろん、まったく知りもしない本が影響を及ぼすわけはない。それではオカルトだ。しかし、本の存在を知り、その概要を知り、何がしかの興味を感じて買おうと思った本、例えば、購入予定リスト(今であればアマゾンの「ほしい物リスト」か)に載った本は、何かの力で働きかけてくるようだ。実際に買う前に、読む前に、そこに書かれているかも知れないと自分が想像するその内容が、自分に働きかけて来るのだ。


産業革命
T.S.アシュトン
中川 敬一郎 訳
岩波書店(岩波文庫)


桜の園・三人姉妹
チェーホフ 作
神西 清 訳
新潮社(新潮文庫)

読書

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