前衛詩人の短編小説『猫町』
本作『猫町』の作者である萩原朔太郎は、言うまでもなく(当時としては前衛の)詩人である。詩人ではあるが、数は多くはないものの小説や随筆も書いている。それが珍しくて本作を手にしたのだが、本の薄さ(その薄い文庫本に18編が採録されている)の割には中身は濃厚といった印象だ。これが詩人の文章の密度というものか。
朔太郎の「ディープ」な世界
本作は、主人公が猫の町に迷い込んだという幻想的な物語。詩集『青猫』との関連もあるらしい(ざっと読んだところでは分からなかったが)。最近の猫ブームで取り上げられるような「可愛い猫」ではなく、中世からの伝統に従った、魔女の傍らに控えているような「不気味な猫」のようだ。文庫本に入っている『ウォーソン婦人の黒猫』も同じく猫を題材にした作品である。
さらに、猫からは離れるが『老年と人生』は、老年(といっても五十歳を超えたくらいだが)の心境をつづった随筆で、作者より歳をとってしまった管理人は少々身につまされる。どれも作者の相貌からは想像しにくい「ディープ」な感覚の作品である。いずれにしても、実際に読んで初めて分かるような作品なので、紹介はこれくらい。
日本語の詩の不思議
さて、実はここからが本題である。本作は、詩人の小説ということで読んでみたわけであるが、それでは作者の(あるいは他の詩人の)詩を読むかというと、そうでもない。まったく読まないわけではないが、少なくとも今のところは好んで読むということはない。そういう管理人と、(日本語の)詩について同じように感じている人は意外に多いのではないか。
どこまで理解できているのかは別にして、和歌や俳句は素晴らしい、と思う。散文であっても、文語文のみならず口語文でも、意味内容だけでなく、その言葉の働きが立派だ、と感じることがある。しかし、なぜか詩は気恥ずかしく感じてしまう。数少ない例外はあるけれども、どうにも中途半端な散文のように思えてしまうのだ。
まったく下らない比喩で実に申し訳ないのだが、日本語がプリントされたTシャツのような感じが拭えない。Tシャツの方は下手に意味が分かり過ぎるために文字がデザイン化され切っていないせいかと思っていたが、それだけでもないようだ。
アメリカのTシャツには英語が書かれている。それで違和感がない、というかアメリカ人とってもカッコ良いから書かれているのだろう。しかし、日本のTシャツに日本語で「根性」とか「ナンバー・ワン」とか書かれていたら、居たたまれない。なぜか日本語は、意味を伝達するだけの日常の文脈から引き離すためには、何か一ひねりが必要ということなのか。和歌や俳句、あるいは唄のように。
猫町 他十七篇
萩原 朔太郎 作
岩波書店(岩波文庫)
本作は、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/641_21647.html)に入っている。









