科学と魔術とトリックの日本社会『科学と社会』

社会,科学

 本書『科学と社会』の著者は中谷宇吉郎。寺田寅彦を師に持ち、北大を拠点に低温科学の研究に多大の業績を残した物理学者である。世界で初めて人工雪の製作に成功したことで知られるほか、科学を題材とした一般向けの随筆もよくした。中でも『雪』は、科学者としての冷静な観察眼と随筆家としての詩情あふれる表現が融合した傑作である。有名な「雪の結晶は、天から送られた手紙である」は、同書の最後に出てくる言葉である。
 その『雪』に比べると、本書はテーマがテーマであるだけに、終戦直後の時期(初版は1949年)における政治批判など舌鋒は鋭い。同じ著者とは思えないくらいだ。本書で扱われているのは、社会、特に当時の日本社会における科学の位置づけと、政治や社会と科学(者)の関係である。ただ、具体的に採り上げられている事例は現在から見ると古くなってしまっており、そのため本書はかなり以前に絶版になっている。そこで、今日的意義がありそうなところを、少し紹介したい。

「科学」は「魔術」にあらず

 まず、そもそも「科学とは何か」という話である。著者は、これに答えて「科学は常識のエッセンスである」であると言う。事実や仮説や論理、あるいは反証可能性といったものでなく、「常識」が前面に出てくるのは、社会、殊に政治の領域で科学が「不可能を可能にする」というような誤った捉えられ方をされているためである。著者は、「不可能を可能にする」ようなものは魔術であって科学ではない、科学は「可能を可能にする」ものだと言う。
 例えば、(当時、軍事的に重要であった)飛行場の滑走路上の霧を消すという課題に対し、日本では石油等の物資不足で研究すら進まなかったのに対し、イギリス軍は7千万ガロンもの石油を燃やして霧を消して見せた。それだけの石油を燃やせば霧が消えるのは当然である。しかし、その当然のことを実際にやって、当然の成果を得るのが科学(の実践)だというのである。燃やす石油もないのに霧を消す、というのは科学でなくて魔術である。

 こうしたことは、科学に限られない。素人が専門家に何かを求めるとき、しばしば「非常識」を期待する。どんな分野であれ専門家に出来ることは、当たり前のことを当たり前に落ち着かせることであって、打ち出の小槌のように無から有を作り出すようなことではない。たまに驚くようなことも起こるが、それは素人が「常識」知らずだっただけのこと。ところが、政治家はもとより合理的に行動するはずのビジネス系の人間ですら、いつも驚くような「非常識」ばかりを期待するのだ。

非科学的「非常識」の暴走

 次は、昭和18年に突如起こったという日本的製鉄法事件である。これは、砂鉄を畑の中に盛り上げて、そこにアルミニウムの粉を加えて火をつけると、砂鉄が一遍に純鉄になるというものである。もちろん、こんなことで純鉄は出来ない。正確に言えば、多少の純鉄は出来るが、アルミニウムの方がよほど高価なので製鉄法としてはおよそ意味をなさない。こんなことは専門家であれば簡単に分かることであるはずなのに、政府や技術院まで巻き込んで、実施寸前というところまで行ってしまったという。
 これは「非常識」と利権が結びついた、トリックのようなものである。ここでは、たまたま製鉄が対象になっているが、当時も今も、似たような話は他にもあるだろう。しかし、ここまで単純な話がここまで突き進んでしまう馬鹿さ加減は、むしろ貴重というべきである。いわゆる「失敗学」で扱われるような正統派の失敗とはかなり色合いが異なるが、このような馬鹿騒ぎも後世のための教訓になりそうである。しかし、あまりにもに馬鹿らしくて役に立たなそうに見えるから、すぐに忘れられ、反省もされず、また同じことを繰り返すのだろう。

 もしこういうケースを集めて、どこでどう脱線したのかケーススタディでも行えば、意外にいろいろなことが見えてくるのではないか。最近では、お笑いコントというほかない布マスク騒動が筆頭である。マスクは必要だった(少なくとも欲しがられていた)。布製は次善であったが、利点もあった。品質は犠牲にされたが、スピードを優先しようという判断は正しかったはずだ。ところが、どこをどう間違えたか、あるいは全てが間違いだったのか、ああいう結果に終わってしまった。分析すれば、何か出てくるかも知れない。


科学と社会
中谷 宇吉郎 著
岩波書店(岩波新書)

書評

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