不老不死の世界は幸福か『LIFE SPAN』
古今東西、不老不死が熱望されてきたことは、老化と死が避けられないものだという認識の裏返しである。怪しげな薬やまじないの類はそれこそ山ほどあったが、不老不死どころか、何の効果もないことは、現代医学の到来を待つまでもなく、うすうす気づかれていたことだろう。その現代医学によれば、老化は病気ではない。なぜなら病気とは異常なもの、つまり半数以下の者に訪れるものをいうのであり、万人に訪れる老化は正常なものであるから病気ではない、というわけだ。それは、黙って観念すべきものであった。そこに異を唱えるのが本書『LIFE SPAN』である。
老化は「治療」できる
本書によれば、老化や死は進化の過程で獲得した生存メカニズムの誤作動による、少し詳しく言えば、長寿遺伝子がさまざまな原因で損傷を受けたDNAの修復に携わっているうちに本来の働きであるエピゲノムの制御に支障を来たすようになるということだ。したがって、それさえなくなれば人間の寿命に限界はない、異常すなわち病気にすぎない老化や死を黙って受け入れる必要はない、いや、受け入れるべきではない、ということになる。
それでは、その「病気」を「治療」する方法があるかと言えば、実はあるのだという。以前から、半飢餓状態にあると長寿遺伝子のスイッチが入って寿命が延びるというようなことは言われてきた。しかし、そのような受けたくない「治療」ではなく、エネルギー産出に関わるNADという補酵素を増加させる物質を摂取するだけ、というような簡便な方法があるらしい。実際、著者やその家族もそれを実践していて(本書に具体的なレシピまで掲載されている)、年齢からは想像もできないエネルギッシュな生活を送っているという。ネットで調べてみると、超高額のサプリメントが販売されていたりして、胡散臭くもあるのだが……。
不老不死がもららす永遠の若さ
さて、本書で紹介されている「治療」法では、まだ不老不死とはいかないようであるが、さらに研究が進んでより効果的な方法が開発されれば、それこそ半永久的に若いままでいるようなことも可能なのだという。本当にそのようなことが可能なのかはひとまず措いて、そのような未来が本当に望ましいものであるのかは、少し考えてみる必要がある。
この点、著者もいろいろ検討しているのだが、結論としては手放しで称賛している。そういう結論に至る一つのポイントは、単に不死であるばかりでなく不老であることだ。老いさらばえてみじめな老後を送るというのではなく、肉体も精神も若く活力のある状態が続くというわけだ。そういう条件であれば、社会的に何が起こるかはともかく、個人としてはそれを望まない法はないように思えてくる。何しろ、「人生に疲れてくる」ということ自体がないというのだから。若々しくすべてに前向きの精神状態であれば、その状態に疑問を持つこと自体が考えられないはずだ。だが本当だろうか。
生命の有限性と価値
これと似たようなことは以前に考えたことがある。人間の脳をアップロードして出来た不死身のハードウェア脳が実現したとしても、元々の脳が生命維持とリプロダクションを大前提に進化したものだから、不死身に耐えられないだろうということだ。生身の人間の場合、不死といっても老化による死を免れるというだけで、事故死の可能性は変わらないから、「ごく稀な死の可能性」への怖れはハードウェア脳よりはるかに強くなるだろう。千年万年の人生を賭けて、自動車に乗るだろうか、海や山に行くだろうか。いやいや、外を出歩くことすら怖ろしい。
残念なことでもあるが、人間にとっての多くの価値は、生命の有限性と分かちがたく結びついているように思える。人間にとっての死、それも事故による突然の死ではなく緩やかに訪れる予見できる死は、ただマイナスであるわけではなく、プラスの価値を帯びているのではないか。これは避けられないことに対する諦観や合理化や敗北論ではなく、もっと根源的なことである。もし不老不死が実現したら、余命いくばくもないと宣告されたガン患者が死の恐怖に打ち勝ち、かえって生命の意味に目覚めて濃密な時を過ごす、というのと正反対のことが起きそうだ。永遠の時間にあぐらをかいた、限りなく中身の薄い人生……。
とは言うものの、120歳、いや150歳くらいまで若々しいまま過ごせるというのなら、それはそれで受け入れたい気はするのだが。これは永遠ではないから人間の価値は失われない。薄まるかも知れないが、それは本人次第だから。
LIFE SPAN 老いなき世界
デビッド・A・シンクレア 著
梶山 あゆみ 訳
東洋経済新報社









