原子力開発利用は沈むのか『原子力の社会史』
本書『原子力の社会史』は、日本の原子力開発利用の草創期からの歴史を、批判的視点で鳥瞰した本である。最後の章に福島原発事故が入っているが、これは事故後に追加されたもの。本書の旧版はその10年前に出ていたし、もとより著者の研究はそれ以前から一貫していた。福島原発事故があったから批判的視点に転じたわけではない。反対の立場を少々軽視しすぎている印象もないではないが、自らの立ち位置をはっきり書いているのは、ある意味正々堂々としている。
キーワードは「二元体制的国策共同体」
日本の原子力開発利用の歴史において著者が強調するのは、「二元体制的国策共同体」と言うべき構造的特質である。
ここで、「二元的」とは、電力・通産連合が商業段階の事業、科学技術庁グループが商業化途上段階の事業を担当するという形で、開発利用が二つの勢力に分割されてきたことを指す。互いに縄張りの棲み分けを図りつつ、それなりに牽制しつつ、それぞれの事業を進めてきたということだ。
そして、「国策共同体」とは、この二つのサブグループからなる原子力共同体が原子力政策に関する意思決定権を事実上独占し、外部の影響力を極力排してきたことだ。敗戦後の統制経済時代の名残りである「社会主義的」とも言える体制により、民間企業をも束縛する原子力計画が国策として策定され、原子力政策が進められてきた。
国の責任、メディアの責任
いくつか気になったこと。まず、福島原発事故以降、東電に批判が集まっている。いかにも拙い対応があったことは事実であるが、もとはと言えば、(経営的に)常に前向きというわけではなかった電力会社をずっと引きずってきたのは国である。いくら総括原価方式で収益が保証されているとは言え、東電は民間営利企業たる株式会社である。屋台骨を揺るがす事故が起これば民間営利企業なりの対応になることは知れている。ここで国の責任が背後に退くのはおかしなことである。ただし、国の責任イコール国民の負担でもあることは、覚悟するほかない。
エネルギー政策全般に目を移すと、1990年代以降の低成長の期間にも原子力発電は大きく伸びたが、同じ時期に石炭火力発電はそれ以上に伸びている。石炭火力発電は今や、二酸化炭素排出との関係で国際的にも批判を浴びているものであるが、経済性や安定性の問題もあるだろうから直ちに批判するつもりはない。しかし、この時期、原発の話(規模よりも主に事故の話であったが)を聞くことはあっても、石炭火力発電の話(規模の話も二酸化炭素の話も)は実に乏しかった。メディアの認識もその程度だったということか。
日本の組織運営能力を超えた原発
さて、原発問題で重要なのは、今後どうするかだ。福島原発事故のショックで、ヒステリックに原発を捨て去るようなことは、エネルギー政策として本当に大丈夫なのかという気はする。原発にさまざまな利権がからんでいたのと同じように、再生可能エネルギーにも利権がからんでいるだろう。原発のコスト試算にウソがある(事故コストが含まれていない)ように、再生可能エネルギーの経済的見込みにも大いに甘いところがあるだろう。
それでも、原発はもう無理ではないかと思う。原発のリスクを適切にコントロールする技術や仕組みは原理的には可能であるかも知れないが、それを適切に実践することは人間には無理ではないかと思う。少なくとも、日本では無理である。本書にも頻繁に登場する原発関連事故、特にそのあまりに程度の低い事故原因を見ると、残念ながら原発は日本の組織運営能力を超えていると考えざるを得ない。
新版 原子力の社会史 その日本的展開
吉岡 斉 著
朝日新聞出版(朝日選書)