子供の頃に「名作」を読むことの是非

文学

 子供の頃、例えば中学や高校くらいで「名作」(古典的な文学作品)に親しむべきかどうか、と問われれば、大概の人はイエスと答えるだろう。親や学校の先生ならなおさら、出版社もまた(本音は営業だろうが、それはそれで結構なことだ)若者層の読者に向けて「〇〇の百冊」といったものを、毎年のように出している。管理人もまた、基本的にはそう思う。

読んでも分からないのでは

 「基本的には」と留保をつけたのは、体験上、引っ掛かりがあるからだ。管理人は、中学や高校の頃、「名作」などほとんど読まなかった。大学時代は、むしろ科学や哲学に興味が向かった。小説を読むようになったのは、30を超えてからのことだ。読んでみて、実に良く分かる、という実感があった。一方で、年少時にこんなものを読んでも分からないのではないか、とも感じた。
 言うまでもなく、一部の例外を除いて、「名作」は子供向けに書かれたものではない。子供向けでないどころではなく、相当の人生経験を重ねた大人でもその重いメッセージを十分に受けきれるかどうか、というほどのものだ。ドストエフスキーにしても、バルザックにしても、筋を追うのは難しくないし、それだけでも面白くはあるが、真価がそこにあるわけではない。上辺だけ理解して、「ああ、あれはもう読んだよ」ということになりはしないか。

面白とすら思わないのでは

 もっと危険なのは、面白いとすら思わずに終わってしまうことだ。そうなってしまうと、再読の機会まで失ってしまいかねない。大人になれば忙しくなる。本ばかり読んでいるわけにもいかない。面白くすらなさそうな本をまたわざわざ手に取ることは、頭で考えるより難しい。面白くなさそうな本でも何かに役立つと考えて読むことはあるかも知れないが、それは本来の本の読み方ではないだろう。
 このことは、最近たまたま読んだ本でその感を深くした。シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』とスタインベックの『気まぐれバス』である。どちらも、「名作」というほどの評価ではないかも知れないが、この歳になって読むと実に面白い。重いメッセージなど別にしても、話に引き込まれる。ところが、どちらも、筋らしい筋のない小説なのだ。前者は、悪漢気取りの若き工員の日々を、後者は、田舎バスの乗客達の人間模様を描いたもの。多少の事件は起こるものの、起伏といった程度だ。このような本を、中学や高校の時に読んでいたら、ものの数ページで投げ出してしまっていたに違いない。

30になってからでも遅くはない

 もっとも、最近の若者は(良い意味で)早熟なところもある。意外に精神的に逞しくもある。そういう若者なら、「名作」も十分に吸収できるのかも知れない。それでも、早合点はして欲しくない。慌てて読まなくても良い。とりあえず、30になってからでも遅くはないと言っておこう。


土曜の夜と日曜の朝
アラン・シリトー 作
永川 玲二 訳
新潮社(新潮文庫)


気まぐれバス
ジョン・スタインベック 作
大門 一男 訳
新潮社(新潮文庫)

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