極限状況での絶望と希望『白の闇』

文学

 冒頭、ある男の目が見えなくなったというところから、会話の引用符もなしに延々と続く本作『白の闇』の物語は、捉えどころがない。社会に生きる人々が次々に、やがては一人を除いて全員が失明するという特異な極限状況の下で、人間はどのように生きようとするのか、答えのない思考実験の場を彷徨っているかのようだ。おそらく、本作の感染症による失明という特異な設定は、大洪水でも、隕石の飛来でも、核兵器の炸裂でも、ある種の極限状況なら何でもよかったのだろう。
 実際、ストーリーの細部にはやや不自然(ご都合主義?)なところがある。本作のように突然の失明に見舞われれば、どんな悪党でも悠長に快楽など追求している余裕はないだろうし、理不尽な要求に対してはるかに容易に命がけの反撃がなされるだろうし、糞尿まみれの衛生状態ではコレラや皮膚病といった別の問題が直ちに発生するだろう。そうしたことは別にして、思ったところを少し書いてみる。

烏合の衆と社会

 本作の登場人物には、「白い悪魔」に侵される前は社会とのつながりが希薄であった者が多かった。サングラスの娘、車泥棒、黒い眼帯の老人、斜視の少年もそうだろう。それが、白の闇に侵された途端、集団で生きることを余儀なくされた。それが単に収容所にいるだけという烏合の集の集団なのか、それなりに社会化された集団なのかは別にして。そして、その違いが大きいらしいことが、当局から最初のメッセージを受け取ったあたりでそれとなく示される。
 主人公と目される医者夫妻はもともと最も社会とのつながりが強かった人物であろうが、「白い悪魔」と共に別の集団に投げ入れられた。眼科医という象徴的な立場にあった彼らがグループの結節点となり、曲がりなりにも社会のようなものを造り上げ、そして生き残った。生き残った理由には、極限状況下にあって人間の尊厳を失うまいとした信念や、たまたま視力を失わなかった医者の妻がいたことも与っていようから、これが本作のメッセージかどうかは分からないが。

過去の遺物に拘泥する

 本作でこれが人間の性かと思わせられるのは、失明した人々がもはや何の価値もなくなった過去の遺物に拘泥するところである。最初に失明した男は車を盗まれたことに憤慨する、第三病室の悪党どもは喜々として金品を巻き上げる、多くの者が今日は何日なのか日数を計算する。人間の尊厳を失わないというのも、残念ながらこの範疇に入るのか。極限状況で生き抜くことを第一に考えるなら、これは無益な憧憬、余計なぜいたくのようにも見える。
 しかし、そうではないのかも知れない。それは、極限状況もいつかは終わるはずだからだ。目が見えるようになるか、別の形で生きながらえるか、死んで終わるかはわからないけれども。もし死ななければ、金品はともかくとして、日数計算はともかくとして、人間の尊厳はまた意味を取り戻す。俗なレベルで言えば、苦境から脱した時、それを無駄に過ごしたことを後悔することがある。失わなくても済んだものまで失って後悔することがある。本作はもっとレベルの高い話をしているわけだが。

本作は希望の物語なのか

 「白い悪魔」に侵された人々の生存率はどれほどであったろう。街中はボロボロで食料も尽きかかっていたことを考えれば、3分の1もあったら良い方だろう。現在の極限状況もいつかは終わるだろうと(無意識にでも)思えることは、希望のなせる業である。医者夫妻を中心としたグループも、それ以外の生き残りも、ともかく希望を失わなかったことが生還につながったのだろう。そうすると、この絶望的な物語は、実は希望の物語であったのか。
 ただ、希望の成就はまた、新たな絶望の始まりでもある(黒い眼帯の老人の言葉に暗示されている?)。目が見えるようになった人々が、崩壊した社会に直面しなければならなかったことは当然として、目が見えなかったときに犯した自らの悪行に表される人間性の崩壊にも直面しなければならない。そうすると、第三病室の悪党どもは耐え難いほどに苦しむことになろうから、早々と地獄の業火に焼かれてしまったのは実に人道的な筋書きだったのかも知れない。


白の闇
ジョゼ・サラマーゴ 作
雨沢 泰 訳
NHK出版

書評

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