人情モノであって任侠モノでない『花と龍』
そういう映画があることは知っていたが、原作が小説であることは知らなかった本書『花と龍』。読んだのもたまたま暇だったからであり、それほど期待はしていなかった。しかし、読んでみて驚いた。とにかく面白い。同じ大河小説である『ジャン・クリストフ』はノーベル文学賞、こちらはやや通俗的なところもある新聞小説。『ジャン・クリストフ』はベートーヴェンもどきの音楽家の一生、こちらは龍の刺青を入れた港湾労働者の親分の一生。しかし、こちらの方が断然面白い。そして、血が通っている。
ちなみに、主人公の玉井金五郎は作者火野葦平の実の父親であり、本作の主要部分はほぼ事実であるらしい。これを知って二度驚いた。
情に厚い金五郎
主人公である金五郎を一言でいえば「オヤブン」だ。作中では「オヤジ」と呼ばれているが、「オヤブン」が相応しい。意思が強く、情に厚い、当然、皆に慕われる。若いころは中国大陸を夢見た金五郎だったが、運命の悪戯で任侠とヤクザの街若松に流れ着く。しかし、金五郎のような人物は、環境に作られるのではなく、環境を呑み込んでしまう。おそらくどのような環境に放り込まれても、その周囲の千人万人の中から立ち現われ、その中心で山となる。
それでも、金五郎は弱みを見せることもある。若気の至りで彫った刺青を、議員になってから後悔し、ケンカが嫌いでヤクザが嫌いな金五郎が、融通の利かない新参の巡査に思わず「あんた、この若松で、この玉井金五郎を知らんで、よう、巡査が勤まるなあ」とタンカを切ってしまい、嫌いな連中と同じようなことをしてしまったと反省する。資本家にすり寄ってスト破りを繰り返す宿敵と、ピストルまで使って「最後の対決」をしてしまったことで、自分の流儀に反してしまったとうなだれる。そういうところが、また金五郎なのだ。
マンと金五郎の愛「情」
「花と龍」の「花」とは、金五郎の妻マンである。主人公はあくまで金五郎であるから、作中は三歩下がっている感のあるマンであるが、肝の座りようでは金五郎をもしのぐ「オカミサン」である。実際のところ、金五郎と対峙する時は、「オンテレ・メンピン」であるようだ。マンは、娘時代に暴漢のナニを握り潰し(これは金五郎も「二度」やられているが)、自宅を襲ってくる暴徒にぶっかけようとタライに熱湯をたぎらし、金五郎を瀕死の重体に陥らせた暴漢の女親分と刺し違えようと刀を抜き、雪中を馬で駆け付けて仇敵の暴徒に囲まれた金五郎を回収する。どこかで見覚えがある話だが、森鴎外の『渋江抽斎』に出てくる抽斎の妻五百(いお)であった。しかし、何しろ舞台が若松、こちらは三千五百(?)くらいのパワーである。
そんなマンではあるが、時には嫉妬の炎を燃やすこともある。何しろ金五郎は豪快残忍な女侠客に「惚れるなら、あんな男に惚れなさい」と言わしめるほどなのだから。ただ、そういう話をいくら聞かされても、マンと金五郎の関係はただの夫婦という気がしない。男女の愛情(だけ)という感じがしない。それはむしろ、金五郎とその仲間達の友情や信頼に近い。
究極の人情話
本作は、金五郎とその仲間達の人情の話と言えるだろう。マン然り、かつての恋敵時次郎然り、最初の親分永田然り、そして格別の異彩を放っているのが、金五郎の刺青を掘った女刺青師お京である。金五郎に惚れたお京はマンに敗れて若松を去るが、その情念はうり二つの娘お葉に託されて、ノコノコ出かけて行った金五郎を迎え撃つ。この顛末は、マンの妖しい呪禁で引き出される、というのはいつもの肩透かしに会うのだが、ここは宿敵との「最後の対決」と負けず劣らずのクライマックスであろう。
金五郎に迫るお葉は愛情というよりお京の情念で突き動かされているのだが、その言葉は、「一度はあなたとの思いとげる日を夢にえがいて」いた母と自分の一生を台なしにして「それでも、男なの?人間なの?血が通ってるの?情けがあるの?」である。思いを遂げられないのでは人情に反するなどという話はいまだかつて聞いたこともないのであるが、ともかく、本作はどこまでも人情話なのであった。
さて、冒頭で比較した『ジャン・クリストフ』は、人間を高めようと思って読む人が多いのではないかと思う。しかし、その前に、人間を良く知ろうと思ったら、本作を読むのが良い。特に外国の人は、漱石や鴎外を読む前に、本作を読んだ方がよほど日本人を知ることになるのではないか。
花と龍 上/下
火野 葦平 著
岩波書店(岩波現代文庫)
本作は、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001488/card56224.html)に入っている。









