アメリカだけでも資本主義だけでもない『ショック・ドクトリン』

社会,経済

 本書の題名は『ショック・ドクトリン』。最初に読んだ時は聞き慣れなかったが、本書の影響なのかどうか、その後マスコミなどでも聞かれるようになった。この「ショック・ドクトリン」とは惨事便乗型資本主義、すなわち、戦争、津波やハリケーンなどの自然災害、政変などの危機につけこんで、あるいはそれを意識的に招いて、人びとがショックと茫然自失から覚める前に、およそ不可能と思われた過激な経済改革を強行する、というものだ。その源には、徹底した資本主義を主張した経済学者フリードマンの政策があるという。

アメリカの「ショック・ドクトリン」

 具体的な「ショック・ドクトリン」とは、次のようなものだ。クーデター後に経済が大混乱に陥ったチリで、軍事政権を率いるピノチェットはアメリカの自由主義経済学者たちの指導の下、医療や教育の公共支出を大削減し、資本主義のユートピアに到達するための作業に邁進した。このショック療法で経済は縮小し、失業率は跳ね上がり、大衆の生活は困窮した。対して、少数のエリート集団は大金持ちになった。自由主義経済政策の導入による「チリの奇跡」の内実は、このようなものだった。本書によれば、ボリビアで、アルゼンチンで、ポーランドで、南アフリカで、イラクで、このようなことが繰り返されているのだという。
 ただ正直、読んだだけではピンと来なかった。これは要するに、権力と経済が癒着した腐敗と汚職ではないか。なぜわざわざ惨事でなければならないのか。なぜ資本主義と結びつけるのか。著者は左派のジャーナリスト、邦訳の出版は岩波書店である。書かれていることは深刻であるが、見てきたように書かれていることのどこまで裏が取れているのだろう。多少、いや大いに割引いてみる必要があるかも知れない。むしろ、本来の「ショック」ではあるが、ややこじ付け感のある拷問の章が目につく。劣化したアメリカならやりそうだが、明らかに現代国家の水準ではない。

新型コロナの「ショック・ドクトリン」

 さて、読んだ時はピンと来なかったのだが、新型コロナという「惨事」を経験するに及んで、すべての疑問が氷解するように分かった。再々々々委託で次々とお友達企業が中抜きしていく給付金事業、特定の事業者ばかり懐が豊かになるGOTO事業。どれもが確かに腐敗と汚職の範疇ではある。しかし、財布のヒモの緩み具合、「100年に一度」の事態だからという言い訳、惨事の本体にしか注がれない注意。惨事でなければならないのだ。そして、どれもが真っ当な事業であるかの外観を装うことで追及の目を逃れようとしている。資本主義の枠組みを見事に利用しているわけだ。
 もっとも、このように資本主義とうまく結びつく「ショック・ドクトリン」ではあるが、これは決して右派の専売特許ではなかろう。左派もまた惨事をうまく利用して、自らの野望を果たそうとしている。給付金のさらなるバラマキを梃子にした所得再分配、消費税の恒久廃止を見据えた一時的減税などなど。いや、必ずしもこれらの政策のすべてに反対するわけではない。しかし、その財源はどうするのだろう、といった真っ当な議論はすべてすっ飛ばして野望に突進しようとするのだから、これもまた「ショック・ドクトリン」と言うべきだろう。


ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く 上/下
ナオミ・クライン 著
幾島 幸子,村上 由見子 訳
岩波書店

書評

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