『読んでいない本について堂々と語る方法』があるようだが結局は全部読んでしまう
本書『読んでいない本について堂々と語る方法』は、誤解されそうな題名がついているが、読んでもいない本について知ったかぶりをするとか、読んでいない本について読書感想文を書くとかといった本ではない(それにも使えそうではあるが)。本を読むより自分自身を語ることの方が重要なのだ、つまりは「みずから創作者になること」だ、というところに行き着く、かなり真面目な本ではある。
もっとも、著者の逆説的なもの言いはかなり徹底していて、読まなくて良い、読む必要はない、さらには読まない方が良い、というくらいの勢いである。実際、著者は自身が読んでいない本を(正直に?)挙げているのだが、シェイクスピアの『ハムレット』や本書で丸々一節を費やしているエーコの『薔薇の名前』が「流し読み」しただけになっているなど、本当なのか(大丈夫なのか)という気もする。このあたりは、そもそも「読む」のハードルが高いだけなのか、ある種のウケ狙いもあるのか、判然としない。
読み手の視点と語り手の視点
本書のスタートラインは、「ある本について語る」ことである。ただ、別に原典主義を気取るつもりはないが、管理人としては、そもそも「ある本について語られた」話やコメントや本、といった宙に浮いたものを相手にするより、直接「ある本」を相手にした方がよほど有効な時間の使い方に思える。あるいはいっそのこと、本など読まずに現実を相手にするか。しかし、読む側ではなく語る側に立つなら、話は変わってくる。
このブログでも、本の紹介をするのではなく、自分の思ったことを書くことを第一優先にしている。本は実のところ、そのための口実のようなものだ。それでも「ある本について語る」以上は、その本自体は押さえておいた方が良いと思うから、基本的には全部読む。が、かなり以前に読んだ本は忘れているか、流し読みで済ませるかになってしまう。むしろ、直近に読ん本だと、なまじ内容が頭に良く残っているから、感銘を受けた箇所を書いておきたくなって、逆につまらないものになりがちだ。
SEOの世界では「読者の役に立つ」コンテンツが高く評価されるようだが、管理人は読者のことはあまり考えない。いや、考えないわけではないが、単なる情報提供になってしまえば誰が書いても同じになってしまう。だから、あくまで自分の考えを押し出している。結局、読者のために出来る、何か意味のあることがあるとしたら、それしかないのだ。……とこういう話になってくると、意外に本書の内容に似てくるようだ。
文学系以外の本の場合は
それでも、読まずに語れるのは、対象が文学だからなのかとも思う。そもそも文学自体がフィクション。作品の「テクスト解析」でもするのでなければ、作品に枠をはめられる必要もない。作者が現実世界を題材に自由に想像を働かせたのなら、文学批評も作品やその周辺のもろもろを題材に自由に想像を働かせても良いではないか、と。
しかし、文学系以外の本について何か語る場合、その本を全部読んでいなければ危なくてとても語れたものではない。一部を読んで「著者の見解は〇〇である」と語っても、読んでない一部にそれと反対のことが書かれているかも知れない。反対でないとしても、条件や制約が書いてあるかも知れない。同じ著者の別の本にそうしたことが書いてあるならまだ言い訳ができるけれども、まさにその本に書かれてしまっていれば目も当てられない。
語る内容が批判なら、ワラ人形論法になってしまう。少し高級なところでは、以前に紹介した『社会科学における人間』にも、「なんか少しおかしいぞ、ブレンターノによって紹介されているヴェーバー学説とヴェーバー自身が言っていることとはひどく違うではないか」といったことが書かれている。「虎の威を借る」型というのもある。著名なソフトウェア技術者であるプローガは、自身のエッセイで「この論文(ダイクストラのGOTO文論文)を読んでいない人に限ってダイクストラがこう言ったなどと言う人が多いのだが、実際には何もそんなことは言っていない」と皮肉交じりに書いている。
最後に、楽しみのために読むのであれば、全部読む必要はないだろう。しかし、必要はないけれども、そもそも読むのが楽しくて読んでいるのだから、結局、全部読むことになるのだろう。いかにも面白くなさそうな部分を端折るということはあり得るけれども、以前に読み飛ばしについて書いたこともあるけれども、管理人は結局、全部読んでしまう。
読んでいない本について堂々と語る方法
ピエール・バイヤール 著
大浦 康介 訳
筑摩書房









