「自発的隷従」をしているのは誰なのか

社会

 自発的隷従とは、なぜたった一人の支配者に多数の国民が隷従してしまうのか、という疑問に対して著者ボエシが答えようとした、被支配者側の習性ないしは性向である。本書では、支配者がしばしば用いる飼い慣らしのための詐術にも触れられているが、真に問題なのは、自由を失った者は隷従が習い性となって卑屈と無気力に甘んじるということだ(だからこそ、策術も効くわけだ)。これこそが、不可解でありながら普遍的に見られる支配の力学構造の核心であり、ボエシが「哀れでみじめな、愚かな民衆よ、みずからの不幸にしがみつき、幸福には盲目な人々よ!」と激をとばさざるを得なかった、「服従欲」とも言うべき習性である。

 最初の問題設定からすれば、一人の支配者を除いた一般国民はすべて自発的隷従者ということになるのだが、それでは却って隷従の本質が見えなくなる。支配者に隷従する自発的隷従者とは誰なのか、をはっきりさせておく必要がある。まずは、権力者をとりまいて甘い汁を吸おうとする者(管理人はこれを「吸甘者」と名付けよう)。しかし、これは典型的なプチ悪人、本書の建付けはともかくとして、普通の見方からすれば支配側に入れておくのが便宜だろう。ナチスのような全体主義のメカニズムを説明するのにも、それで不都合はない。
 さて、著者は吸甘者が全体の半数にも及ぶと言うのだが、本当に甘い汁を吸えるのはごく少数のはず。引渡した自己の尊厳よりも見返りに頂戴する僅かの利益を好むような小者は、その他大勢に加えておくのが良さそうだ。そして、管理人の見るところ、これを加えたその他大勢こそが真の隷従者、被支配の災禍を受けながらこれに甘んじる弱き隷従者なのである。実際問題、構成員の大半がそれに甘んじているのでなければ、自発的に権力者のための社会システムにコミットしているのでなければ、そうした社会システムが存立するのは不可能だろう。


自発的隷従論
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ 著
山上 浩嗣 訳
ちくま書房(ちくま学芸文庫)

書評

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