チャプリンから民主主義へのメッセージ『独裁者』
本作『独裁者』は本ではなく映画、チャプリンの凄まじいまでの風刺映画だ。「風刺」を超えて、笑いによる「直接攻撃」という感がある。本作はあまりに有名であるし、批評もし尽くされているが、管理人なりの感想をということで、今回の題材に選んでいる。
本作の舞台は、架空の国トメニア。チャプリン演ずる床屋のチャーリーが、戦時の事故で記憶喪失となっていた間に政変が起こり、独裁者ヒンケル(チャプリンの一人二役)が君臨する。ヒンケルがユダヤ人迫害を進める中、自宅に戻ったチャーリーは騒動に巻き込まれ、いったんは助かったものの、紆余曲折あって強制収容所送りとなる。しかし、そこから逃げ出したところで、何とヒンケルと入れ替わってしまい……というのが粗筋。
感動の演説シーン
最後の演説が、本作のハイライトだ。やむを得ず始めた演説だったが、次第に人間愛に満ちた演説に移っていき、遂には民主主義を謳い上げるに至る。その間、初めはうつむき加減だったのが、やがて堂々たる口調に変わり、最後は断固たる調子だ。手を振り上げ、万雷の拍手。
あたかも、壇上にいる床屋モードのチャプリンに、独裁者モードのチャプリンから「勇ましさ」だけが乗り移ったかのようだ。チャプリンの一人二役が効果を上げている、名場面だ。管理人もその昔、この演説に感動してテープにとり、何度も聴いたものだ。
古い革袋に新しい酒を盛る
しかし、同時にこうも思った。なるほど、確かに演説の内容は人間愛や民主主義を言うものだ。独裁者の戯言とは真逆だ。しかし、指導者が壇上で手を振り上げて演説し、これに熱狂した聴衆が大歓声で応えるというのは、独裁者のスタイルとそっくりではないか。これは、古い革袋に新しい酒を盛っただけではないか。少なくとも、これは民主主義のスタイルではない。革袋の方が破れてくれれば結構だが、革袋から染み出した毒で酒が腐敗してくるかも知れない。
もっとも、これはアメリカの映画だ。日本では違和感があるけれども、これがアメリカの民主主義のスタイルだと言われてしまえば仕方がない。大統領選の党員集会ともなれば、支持者が集まり拍手喝采だ。政治への参加意識の低い日本から見れば、羨ましい民主主義の姿がそこにある。ただし、それは党員が議論しながら候補者を絞り込んでいくという、「アメリカ民主主義の原点」とも言われるプロセスが機能してのこと。前回の大統領選のように、単なる党派的熱狂では、ポピュリズムに堕してしまう。
民主主義が護られた暁には
チャプリンはどう考えていたのだろう。チャプリンがこの映画を製作したのは1940年。ポーランド侵攻の翌年だ。だから、ナチズムと闘い、民主主義を護るために、まだ呑気に構えていたアメリカの流儀に従って観客を鼓舞した。それはそうだろう。
だが、それだけだろうか。民主主義が護られた暁には、立ち止まってもう一度考えて見よ。古い革袋になっていないか注意せよ。チャプリンはそんなメッセージまで込めていたのではないか。民主主義もまた、何でも入る革袋なのだから。
独裁者(原題:The Great Dictator)
チャールズ・チャップリン