権利と価値との衝突『「レンブラント」でダーツ遊びとは』
本書『「レンブラント」でダーツ遊びとは』は、文化的遺産について、権利と価値あるいは価値と価値が衝突する場合、これをいかに調整するかという課題に取り組んだものである。ショッキングな本書の題名は、それを端的に表している。レンブラントの絵画、例えば「夜警」であれ「解剖学講義」であれを所有する者は、その所有権に基づいてそれをどうしようと自由であるのが原則である。それがたとえ、ダーツの的に使うことであっても。しかし、まともな頭の持ち主なら、直ちに異議を申し立てるだろう。そこには、所有権と衝突する別の価値、すなわち稀有の芸術品が持つ価値があるのだと。
「レンブラント」ではない、ハード・ケースが問題だ
もっとも、冒頭で述べたレンブラントのケースは、わざわざ本書で検討されてはいない。一定の価値ある美術品の損壊を禁じる規制でもすれば十分だからだ。本書で扱っているのはそのようなイージー・ケースではなく、ずっと調整が困難なハード・ケースである。例えば、作者自らが出来に満足せずに破棄を望んだ作品、親族や知人の私事に触れた作家の手紙、大統領や最高裁判事が職務とも私事ともつかずに作成した文書、多数の学者が研究対象としたい考古学上の原資料、などなど。
これらの調整が困難なのは、そこで衝突する権利なり価値なりが異質のもので、共通の尺度で測ることができないからだ。しかもたいていの場合、それは私益と公益の調整になる。私益は公益に一歩を譲る、などと考えるのは容易だが、私益は内容がはっきりしているのに対し、公益はしばしば人ごとにその内容を異にする。しかも、熱意ある収集家のような私益の当事者の方が、公的な代表者などより良く公益を支えることもある。一筋縄ではないのだ。
所有権との調整ですら難しい
著者が経済的自由の(行きすぎるくらいに)発達したアメリカ人であることも関係してか、本書で扱われるケースは多くの場合、一方が所有権となっている。経済的自由は大切であるが、多少の規制をしても経済的補償で埋め合わすことができると割り切るなら、最も御しやすい価値ではある。特に、相続人が受けるようなタナボタ的権利の場合は。それでも、実際に問題になるのは親族や知人、あるいは亡くなった本人のプライバシーや名誉であって、所有権は口実にすぎないことも多い。
本書ではあまり触れられていないが、規制が生む副作用も考えられよう。例えば、絵画のような美術品に破壊や汚損を禁じるばかりでなく適正保管や公開の義務を課すとすれば、その交換価値は下がるだろう。それでも、絵画の場合は、芸術的評価の上昇に伴う交換価値の上昇の一部が公的な負担に転化するだけと考えれば、まだしも我慢もできよう。しかし、壁画や建築の場合、所有者は必ずしも交換価値を享受できるわけではない。その芸術的価値が上がってくると負担ばかりがかかってくるのであって、制作依頼そのものが控えられる場面も出てきかねない。
文化的遺産とは、芸術的価値とは
相手が所有権のような経済的価値であろうと何であろうと、公の権利をうんぬんする大前提は、それが文化的遺産と呼び得る価値を持っていることである。それは芸術的価値であったり、学術的価値であったり、歴史的価値であったりするわけだが、それを見極められるのは一部の特殊サークルに限られていて、「公」の主体であるはずの一般人には窺い知れないところがある。芸術的価値あたりは一般人でも感想や好悪を述べることはできるだろうが、それでも評価が定まってくるには相当の年月を要するだろう。
本書冒頭に出てくるディエゴ・リベラの壁画など、当時センセーショナルな事件となったものの、そうした価値が少々怪しいように思える。既に名声があったとはいえ、それが芸術的才能から来るのか政治的才能から来るのか定かでない同時代作家であったリベラの、まだ完成もしていない壁画は、「公」が介入するほどのものであろうか。わざわざ騒動の絶えないリベラに依頼したロックフェラーの迂闊さ加減はともかくとして、当事者間の契約問題を超えるものではなかったはずだ。異論はあろうが、本書の題材としては少々浮いているように見える。
「レンブラント」でダーツ遊びとは 文化的遺産と公の権利
ジョセフ・L・サックス 著
都留 重人 監訳
岩波書店