政治家に問う自覚と責任『職業としての政治』

社会

 少し以前、人気ジャーナリストであるI氏が、与党の二世議員であるK氏に「マックス・ウェーバーの『職業としての政治』についてどう思うか」という質問をしていた。自分はしっかり予習しておいて、おそらくは読んでいないか忘れてしまっているかの相手に質問するのだから、随分と意地の悪い話である。そこを突かれたら、「政治家たるもの、本書のような政治論の古典については見識を持っていて然るべき」などと返すのであろう。K氏の方は内容には触れず、適当にはぐらかしたようである。
 さて、本書はウェーバーが死の前年、第一次世界大戦でのドイツの敗戦と革命の混乱の中で行った講演を基にした生々しい政治論であって、短いながら良く引かれる箇所がたくさんある。

国家は暴力性の独占機関

 ウェーバーによれば、政治とは「政治団体――現在で言えば国家――の指導または指導に影響を与えること」であり、その国家とは「正当な物的暴力性の独占を要求する人間共同体」である。現代にあっては「暴力」の二文字に拒絶反応を起こしそうであるが、時代がどうあれ変わらぬ真理であろう。
 暴力性と言うと、警察力や軍事力(日本では「必要最小限度の防衛力」という)がまず思い浮かぶが、法の執行はすべて強制力に行き着き、強制力は暴力を伴う(少なくとも背景に持つ)から、法治国家もまた暴力に支えられた国家なのである。軍事国家のように、年がら年中暴力を行使しているわけではないけれども。

政治家の自覚と責任

 政治と国家が以上のようなものであれば、政治は暴力性という「倫理的に疑わしい手段」と運命的に結びついていることになる。政治家の行為は、悪魔的な力を利用していることになる。だからこそ、政治家は「自分の行為の(予知し得る)結果について責任を負わねばならぬ」のである。
 宗教的博愛主義のような行き方は、大変に魅力的であるけれども、それで社会の万人を動かすことはできない。だから、それは政治とは別の世界のことである。政治家は、善から生じた悪の結果の責任を、神の意思や人々の愚かさに求めてはならない。政治家には、暴力性を手段とする自覚と、それが故の責任を引き受ける覚悟とが必要なのだ。

二世議員と野党議員に問う

 話は戻って、I氏は単にK氏の不勉強を晒す、もとい、もっと勉強するように諭そうと考えていただけかも知れないが、もし内容について何か問うべきことがあったとしたら、件の自覚と責任はその一つだろう。それは確かに、必ずしも主体的な選択なしに政治の世界に足を踏み入れてしまったかも知れない二世議員に対して、問うて然るべき問題であっただろう。
 しかし、せっかくだから、野党議員に対しても、同じ質問をしてみてはどうだろう。野党議員には、政権運営を担当しない自分達は、暴力性から距離を置いたクリーンな存在であり、件の自覚も責任も関係ない、というような態度が見え隠れしているからだ。しかし、ウェーバーも言っているように、国家の「指導に影響を与える」こともまた政治である。「職業としての政治家」である野党議員は、政権批判ばかりでは済まされない重い責務を有しているのである。


職業としての政治
マックス・ウェーバー 著
清水幾太郎,清水禮子訳 訳
河出書房新社(世界の大思想)


上記は既に絶版になっている全集版である。現時点で入手しやすいのは、岩波文庫版(脇圭平訳)である。

書評

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