全体主義から共産主義を経て権威主義へ『隷従への道』

社会,経済

 本書『隷従への道』は、著者ハイエクの主著の一つ。自由主義や民主主義が全体主義へと「隷従」していきかねない思想と社会の動きに警鐘を鳴らしたものだ。本書の出版は1944年、第二次世界大戦中であるから、必ずしも西が東を敵と見た本ではない。むしろ西の中に胚胎しつつあった、ナチス化に至るドイツとの類似状況を鋭く指摘したものだ。だから、当時とは敵が変わった現代ても、本書の価値は揺るがない。

計画主義の幻想と危険

 自由主義経済の旗手のように言われるハイエクではあるが、必ずしも共産主義や社会主義の目的自体(そこにはユートピア的な正義はあるから)を否定しているわけではない。否定するのはその手段である、集産主義や計画主義という幻想である。否定する理由は、そもそも経済を計画するなどということは不可能であり、経済問題を超えたあらゆる問題に対して目的を好き勝手に設定する巨大腐敗権力構造が出来上がるだけだからである。
 現在でも「共産党」というような名前は残っているものの、生粋のマルクス・レーニン主義を国是とする国家は地球上からほぼ姿を消した。しかし、それらの旧共産主義国は、どれもこれも見事なまでに、新たな問題児である権威主義国家へと横すべりした。そして、経済と社会を自在に操ろうとする、(物価や失業や生産性はまるでコントロールできないのに、ヘンテコな公共事業や補助金のバラマキ政策に忙しい)巨大な国家権力はますます世界にはびこっている。

未来社会へ向けた金言の数々

 本書にはそのメッセージもさることながら、政治や経済に関する著者の立場を端的に表す金言に溢れている。批判者なら怒り心頭になるところだろうけれども。

一般に教育や知性の水準が高くなっていけばいくほど、人々の考え方や趣味嗜好は多様になっていき、ある価値体系に対して人々が意見を一致させる可能性が少なくなっていくのはおそらく間違いない。このことから推論すれば、もし人々の間に高度の一様性や相似性を見出したいのであれば、より道徳的・知性的でないレベル、より原始的で「共通」の本能がむき出しになる部分へと、視点を降ろしていかなくてはならないことになる。

 ナチスのような下等な政党が曲がりなりにも民主主義的なプロセスから生まれたのは、歴史の一つの教訓である。しかし、集産主義や計画主義を目指す場合の合意は、漠然とした多数の合意ではなく、すべての事柄を一つに方向づけていく没我的合意である。これは残念ながら、集産主義や計画主義に限られない。民主主義に現れればポピュリズムであり、資本主義に現れれば大量消費社会である。

この失業問題の分野で、「完全雇用」などという漠然とした、だが人気のある標語にいったん人々が心を奪われてしまうと、極度に近視眼的な政策手段を採用するように導かれていく危険性が高まり、そうなれば、「これはあらゆる犠牲においても解決されなければならない」という、馬車馬的な理想家たちの絶対的で無責任な主張が、最大の弊害をもたらすのを避けることが、ほとんどできなくなってしまう。

 近視眼的な政策がいかに無益かつ有害であるかは昨今の新型コロナの政策(実施されずに済んだ主張も含めて)でも明らかだが、そうしたものは大抵、善意の無能で支えられているのだから始末に負えない。こうした「馬車馬的な理想家たちの絶対的で無責任な主張」は、至る所にはびこっている。何か正義感をもって語られる過剰政策が打ち出されたなら、それを「完全雇用」の部分に置き換えて吟味すべきであろう。

個人の責任が問われないところでは、善も悪もなく、道徳的真価を試される機会も、正しいと思うことのために欲望を犠牲にすることで自らの信念を証すチャンスもない。人々が自分の利益に責任を持っていて、それを犠牲にする自由があるところにおいてだけ、人々が下す決定は道徳上の価値を持つことができるのである。われわれは、自分のふところを痛めることなしに博愛的であろうとすることなど許されていないし、自らの選択の余地がないところで博愛的にふるまったからといって、どんな価値があるものでもない。

 無理に道徳的行為をするまでもない、結果が良ければそれでよい、と言われてしまえばそれまでだが、これはかなり重要なことだ。個人が何も考えず、何もせず、ただお上に強制され、お上の言うとおりに行動し、お上の行動を傍観するだけでは、それは人間歯車である。人間歯車になるのは勝手だが、せめて他人の負担、他人の犠牲で自己の博愛観念を実現しようという全体主義的正義だけは勘弁してもらいたい。


隷従への道
F・A・ハイエク 著
西山 千明 訳
春秋社

書評

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