芥川龍之介渾身の心理短編『三右衛門の罪』

文学,心理,青空文庫

 本作『三右衛門の罪』は芥川龍之介の短編。十ページ少々の作品である。それほど有名ではないかも知れないが、一点に絞ったテーマに、実に考えさせられるところがある。梗概を書けば数行で足りるだろうし、知ってしまえば初めから分かっていたような気にもなるのだが、人の心理を突く内容に、その書きぶりにうならされる。

依怙はしていないが依怙をした

 加賀の宰相治修の家来であった三右衛門は、自分を闇討ちしようとした若者数馬を斬り伏せた。しかし、闇討ちとは穏やかでない。何か意趣を含んでいたのではないか、と治修は尋ねる。三右衛門はあるいはあれを怨まれたものかと答える。三右衛門は道場で行われた数馬の試合で行司の役を務めたのだという。数馬にとっては大事な試合だったが、数馬は多門に負けてしまう。
 自分は決して依怙はしなかった、しかしそう疑われたかも知れない、と三右衛門は言う。だが、話を続けるうち、「わたくしは行司を勤めた時に、依怙の振舞いを致しました」と言い出す。どういうことか。「わたくしの依怙と申すのはそう云うことではございませぬ。ことさらに数馬を負かしたいとか、多門を勝たせたいとかと思わなかったことは申し上げた通りでございまする。しかし何もそればかりでは、依怙がなかったとは申されませぬ」。この後の告白が本作の肝だ。

三右衛門の陥った依怙の罠

 三右衛門が言うには、公平を貫こうとしたことが、かえって不公平に陥らせたというのだ。

行司はたといいかなる時にも、私曲を抛たねばなりませぬ。一たび二人の竹刀の間へ、扇を持って立った上は、天道に従わねばなりませぬ。わたくしはこう思いましたゆえ、多門と数馬との立ち合う時にも公平ばかりを心がけました。けれどもただいま申し上げた通り、わたくしは数馬に勝たせたいと思って居るのでございまする。云わばわたくしの心の秤は数馬に傾いて居るのでございまする。わたくしはこの心の秤を平らに致したい一心から、自然と多門の皿の上へ錘を加えることになりました。

 そして、数馬に与えるべきであった一本を与え損ねた後、多門に与えるべきでなかった一本を与えてしまう。

この多門の取った小手は数馬の取ったのに比べますと、弱かったようでございまする。少くとも数馬の取ったよりも見事だったとは申されませぬ。しかしわたくしはその途端に多門へ扇を挙げてしまいました。つまり最初の一本の勝は多門のものになったのでございまする。わたくしはしまったと思いました。が、そう思う心の裏には、いや、行司は誤っては居らぬ、誤って居ると思うのは数馬に依怙のあるためだぞと囁くものがあるのでございまする。

公正(フェア)とはどういうことか

 裁判官は、身内の事件を裁くことはできない。採点式のスポーツでも、同国人の採点はできないといったルールがある。こうしたことは、「李下に冠を正さず」のような外形ばかりの問題でなく、実際、できない相談なのだろう。それは、人の心が不正に傾きやすい弱さを持っているからというだけではなく、強い心で不正を避けようとしても、むしろそうすればするほど歪んでくるということだ。いや、そもそも何が公正なのか分からなくなってくる。それを文学の言葉で眼前に示したのが本作ということだ。
 管理人が最も重視する倫理的価値は自由だが、その次に来るのは公正(フェアと言った方がしっくりくる)である。だから、本作には非常に頭と心を揺さぶられる。公正に振る舞いたい、公正に振る舞わねばならない、という立場にある人には是非とも一読してもらいたい作品だ。

 最後の一節でもさらに捻りが入っている。治修が「そちは一太刀打った時に、数馬と申すことを知ったのじゃな。ではなぜ打ち果すのを控えなかったのじゃ?」と問うたのに対する三右衛門の答えである。あえて引用しないが、ここまで来てもまだ奥があるのだ、単純ではないのだ、と言い募る。
 こういうところを見ても、芥川龍之介は短編作家なのだと思う。1回を全力投球するタイプで9回はとても持たない。読者の方も持たないだろう。


三右衛門の罪
芥川 龍之介 作


本作は作者の短編集や全集にも入っているが、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card138.html)の方が確実である。

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