トラウマもナラティブもない日本のテロ『歪んだ正義』

心理,社会

 世界ではテロ的なことが頻繁に起きている。日本でも多少方向性は違うが無差別殺人のようなことがたまに起こる。そこまで行き着かなくとも、理不尽な負のエネルギーが他人に向けられることは少なくない。こうした行為に、人格異常とか身勝手の極みとかレッテルを貼ることは易しい。しかし、犯人は必ずしも初めからそうした「異常」者だったわけではないことがしばしばである。こうした行為の際に犯人が持ち出す「狂った」主張も、他人にはまるで理解できないが、本人にとっては外部からは窺い知れない意味があるものらしい。

5ステップの「過激化プロセス」モデル

 本書『歪んだ正義』は、副題にあるとおり、「普通の人」がなぜ過激化するのかを、ジャーナリストである著者が、イスラエルの大学院(関連分野の研究が進んでいる)での研究に特派員としての取材経験を加味して考察したものだ。
 この「なぜ」を整理したのが、著者による、5ステップからなる「過激化プロセス」のモデルである。最初に、①私的な苦悩、政治・社会的不正義への疑問や怒り、という種があり、これが、②ナラティブ(物語り)づくり、で外部の思想や理論と結びつき、③過激化トンネルで膨らんでいく。後は、④宣伝グセとしての予告、⑤トリガー(キッカケ)。何かの種があっても、すぐに行動に移されるわけではない。このように段階的に、熟成されるように、過激な行動に移っていくというわけだ。

過激化へのエネルギーと坂道

 ただ、過激化が段階的に亢進していくのだとしても、これほどの距離を移動できるものだろうか。それに対しては、二つの点がポイントになるようだ。
 一つは、①での個人の具体的な苦悩や疑問が、②でより大きな絵に投影されること。この場合、たとえ「狂った」主張であろうとも、そうした投影先にはなり得る。そして、個人的な出来事よりも大きな絵であるが故に、大きなエネルギーになる。
 もう一つは、ストレスやトラウマによる負荷(マイナス)と、資源(リソース)により支える力(プラス)の平衡バランスが崩れると、過激化が大きく亢進するということだ(著者は過激化の入り口に立つとするが、その後もこの力は働くように思う)。
 こう考えると、バランスを失う時点ではもはや「普通」ではない。だからこそ異常な行動に向かっていくのだが、状況次第では誰もが大きなストレスやトラウマを持つことはある。だから「普通」の人でも、こうした過激化と無関係ではないわけだ。

八つ当たり型の日本のテロ

 これはこれで説明として整ってはいる。しかし、著者の研究のベースとなった中東では合致するのだとしても、日本ではどうなのか疑問は残る。
 例えば、ISの主張は恐ろしく歪んではいるが、苦悩や疑問を持った若者を惹きつけるくらいに大きな絵ではある。ノルウェーの銃乱射事件の犯人の主張も、内容は無茶苦茶ではあるが1500頁に膨らんだ政治的マニフェストの体裁をとっていた。ところが、近年の日本人の無差別殺人には政治性がほどんどない。宗教性はもとよりない。オウム真理教の事件がむしろ例外に見えるくらいだ。個人的な不満が大きな絵を経由することなくただ暴発する、その大きさばかりが「一人前」という感なのだ。
 そもそも、中東では日常的に生命の危険があるくらいだが、日本で「生死にかかわるような出来事を体験したり目撃したりすることで生じる心の傷」というほどのトラウマを負うことはほとんど考えられない。臨床的にはそういう診断となるのかも知れないが、日本であるのは、就職できなかったとか、家族との関係がうまく行かなかったとかいう程度の、ありがちなストレスだ。本書にも出てくるように、日本での事件は総じて、心理学的「置き換え」(八つ当たり)型なのだ。

自分はテロリストになり得るか

 著者は当初、自分がテロリストになることはあり得ないと考えていたのが、研究を進めていくうち「絶対にないとは言えない」と考えざるを得なくなったと言う。しかし、管理人は正直なところ、本書を読んでもなお、(日本にいる限りは)そういう感じがしない。これは何も、管理人には過激化の種がまったくないとか、特別良質なリソースがあるとかいうことでは全然なくて、ただひたすら、それほど莫大な負のエネルギーがどこからか湧いてくるとは思えないからだ。
 これはどうしたことか。自分がベッタリと嵌っているこの社会に何か大きな欠陥があるのではないか、説明不能の負のエネルギーが充満しているのではないか、と疑ってしまうのだ。


歪んだ正義 「普通の人」がなぜ過激化するのか
大治 朋子 著
毎日新聞出版

書評

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