プラトン『国家』からの哲学2000年の進歩

哲学

 プラトンは、紀元前400年ころアテナイに生きた人である。現代の我々とは大きな隔たりがあるが、「西洋哲学の歴史はプラトンへの膨大な注釈である」とまで言われた影響力を通して、現代の我々ともつながっている。そういうプラトン(と師であるソクラテス)の考えそのものは、概説書を読めば分かる。あるいは、概説書を読んだ方が分かる。それでは、専門家でも何でもない一般人が、プラトンそのものを読む理由は何だろうか。教養がどうのこうの、ということではなく、わざわざ読む「動機」ということである。

プラトンを読む「動機」とは

 一つには、プラトンの考えが何なのかということだけではなく、実際にプラトンはどういう言葉でどういう論法でそれを展開したのか、を知りたいというのがあるだろう。少し意地悪くいえば、プラトンは本当にそんなことを言っていたのか、という面もある。概説書の場合はともかくとして、有力な先人の説を自説の論拠とするためのさまざまな引用は、しばしば都合良く曲げられていることがある。これは、プラトンの場合に限られない。
 もう一つあるとすれば、概説書があまり触れていないこと、つまり現代の目から見れば明らかにおかしいこと、そうしたことをプラトンはどれだけ言っていたのか、という興味がある。「おかしい」といった場合、当時の常識からすればやむを得なかったが現代人から見ると違うというのと、どういう視点から見てもおかしいというのがある。特に注目したいのは、後者だ。あのプラトンでさえ、こんな「誤り」に陥っていたのかと。例えば、本書『国家』の、こんなものはどうだろうか。

プラトンの「おかしい」議論

 まず、国家における人々の仕事の振り分けについて。これは、生まれつきの素質によらなければならない。そして、金儲けを仕事とする種族、補助者の種族、守護者の種族は、それぞれ自己本来の仕事を守って行うべきであり、それが「正義」に他ならない――。もちろん、仕事に対する生まれつきの素質というのもないわけではないだろうが、初めから分かっているものではない。ところが、ここでは地位や階層としてあらかじめ固定されてしまっていて、入れ替わりや兼務は許されない。歴史上、こうした階層社会は決して珍しくないが、「正義」とまでに賞揚されたことはなかっただろう。
 次に、守護者階層のリプロダクションについて。これは、男女は共同生活で、猟犬や馬におけると同様に、最もすぐれた男たちと最もすぐれた女たちに子供を作らせるようにする。戦争その他ですぐれた働きをした者には、そうした機会を多く与える。彼らの子供たちは、保育所に引き渡されて、乳母の手で養育される。それ以外の子供たちは、秘密のうちに始末される――。これは端的に、おぞましい優生学と養育法である。この種の発想もまた、その後の歴史に繰り返し現れたが、ここまで徹底したものは実践はおろか構想されたこともなかっただろう。

これもまた錯覚なのか

 このようなものは、さすがに「おかしい」と言いたくなる。もっとも、歴史を見れば誤っていたのは、プラトンだけではない。そうだとすると、これを「おかしい」と考えられるようになった我々は、2000年がかりでようやく進歩したということか。
 それとも、このような進歩の感覚すらも錯覚なのか。これが錯覚なのだとすると、我々が当然だと思っている他の重要な価値もまた錯覚かも知れないことになる。そうすると、もう2000年、同じことを突き回さなければならなくなってしまうが……。


国家 上/下
プラトン 著
藤沢 令夫 訳
岩波書店(岩波文庫)

書評

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