利己の努力と幸福三説『努力論』

哲学

 本書『努力論』は「努力」についての本だ。見出しを拾うと、「運命と人力と」、「着手の処」、「自己の革新」……というもの。実際、著者の露伴は「努力に関することが多いから」このタイトルにしたと言う。しかし、そこでいう「努力」は、今の時代の我々がいう「努力」とは似ているようで違う。我々の「努力」は、だいたいが利己的な「努力」だ。管理人は、本人が努力するのはそれはそれで結構だと思っているが、周囲が騒ぐのはいただけない。

利己の努力は幸福か

 例えば、親や学校の先生は子供に向かって「勉強しなさい」と言い、良く勉強する子供に対しては「勉強してえらい」と言う。しかし、子供が勉強することは、親が老後に楽できたり、先生の勤務評定が上がったり、ということを別にすれば、本来、一方的に本人の利益になることだ。自分の利益になることをやって、何が「えらい」のか。勉強しないのが愚かなだけで、勉強したのを褒めるなどいかにも程度が低い。
 この点は、子供の方が正直かも知れない。「ヤミ練」という言葉がある。闇夜の時間外練習というほどの意味だが、部活やサークルで、仲間に隠れて自分だけコッソリ練習に励むというニュアンスもある。もちろん、練習すれば自分の利益になる。「ヤミ練」しなかった者は、相対的に不利益を被って、例えばチームのレギュラーを奪われたりする。馴れ合いの中で仲間の足を引っ張るような言い方は褒められたものではないが、本質を言い当てている。いや、本質が漏れ出ている。
 こうしたことは、子供だけの話ではない。もっと高級そうに見える大人の活動でも同じことだ。

努力と重なる幸福三説

 では、露伴はどう言っているか。もちろん、露伴も努力を否定しているわけではない。しかし、「詩歌の如きは当面の努力のみで佳なるものを得べくはない。不勉強が佳なる詩歌を得る因にはならぬが、ただ当面の勉強のみによって佳なる詩歌が得らるるものではない。……この意において勉強努力は甚だ値が低い。」と言う。そして、「芸術の源泉となり基礎となる準備の努力、即ち自性の醇化、世相の真解、感興の旺溢、製作の自在、それらのものを致すの道を講ずることが重要である」と続ける。
 もっとも、ここまでのことなら、結果を出すためには直接の努力(当面の努力)だけでなく間接の努力(準備の努力)が必要だということだから、いかにも高尚ではあるが、利己的な努力の範疇である。しかし、本書には、別のことも書かれている。「惜福」、「分福」、「植福」という「幸福三説」がそれだ。

  • まずは「惜福」。これは、「福を使い尽し取り尽してしまわぬ」ことだ。例えば、新しい衣服を贈られたときに、その恩に感謝して、旧衣が着られる間はこれを普段着とし、新衣は冠婚葬祭のような場面で着る、というようなことだ。これによって、旧衣も新衣も十分に活用し、他人に対して敬意を失わず、自分もただ一着しかないという事態を免れる、という。
  • なお善いのは「分福」。これは、「自己の得るところの福を他人に分ち与うる」ことだ。例えば、自分が西瓜や蜜柑を得たときに、全部を飽食せずに少し残しておくのが惜福とすれば、それを他人に分け与えて共に味わうのが分福だ。分福は惜福に比べて、他人の身上にもかかる分、積極的な側面がある。
  • 最も上に来るのが「植福」。これは、「我が力や情や智を以て、人世に吉慶幸福となるべき物質や情趣や智識を寄与する事」である。果実の例を続ければ、新たに種を播き木を植えて実を成らす、ということだ。ここに至ると、無から有を生ずる、つまりは福が殖える。今日ある福は皆、前人の植福の結果であるということだ。

 書かれていることは「福」であるが、「努力」と重なるものがある。努力があって、あるいは運があって、果実を得たならば、惜福、分福、植福することを考えよ、とも読める。本書中の小論は別々の機会に書かれたもので、露伴はそれらの関係について特に何も語っていない。しかし、一緒に『努力論』に収めたことが、何事かを物語っているようでもある。


努力論
幸田 露伴 著
岩波書店(岩波文庫)

書評

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