『これから「正義」の話をしよう』で考える「トロッコ問題」
本書『これから「正義」の話をしよう』は、ハーバード大学のサンデル教授が行った「白熱教室」を書籍化したものだ。日本でも話題になったが、正直なところ、あれだけ売れたのは「ハーバード」のブランドとプレゼンテーションの手際が大きかったように思う。本書の内容そのものは、現代風の事例を交えた普通の道徳哲学である。
ここで取り上げたのは、「白熱教室」で有名になった「トロッコ問題」を考えてみようということだ(本書には4頁の説明があるだけだが)。
古典的思考実験「トロッコ問題」
「トロッコ問題」自体は、倫理や哲学を考える際の思考実験で、ずっと以前からあったものだ。単純化して言えば、そのままではトロッコ(本書では路面電車)に轢かれて死んでしまう5人の作業員を救うために、別の作業員1人がいる待避線へハンドルを切ることは容認できるか、あるいは途中の跨線橋から1人の大男を突き落としてトロッコを止めることはどうか、というもの。単に内省するだけでなく、さまざまに条件を変えながら被験者に回答を求める実験を行ったり、その結果(傾向)と脳の働きの関係を調べたり、と研究の内容も進んでいるらしい。
このトロッコ問題が倫理や哲学と深く関わっているは、それが5人の命を救うために1人の命を犠牲にできるか(すべきか)という究極の選択を迫るものだからだ。単純な人数の比較だけで言えば、1人より5人を救う方が良さそうだが、それに不可避的に伴う「殺人」は許されるのか、許されるとすればそれはなぜか、ということだ。あくまで思考実験だから、本当にこの方法で5人を救うことができるのか、法律的に問題はないのか、といったことは考えないという約束だ。
同じ1人の犠牲でも違いが生じるのはなぜか
この場合、トロッコを別の作業員1人がいる待避線に向ける方が、跨線橋から大男1人を突き落とす場合より、同じく1人を犠牲にするとしても許容度は高くなるように思える。本書には出てこないが、多くの被験者に対して行われた実験でも、そういう結果が出ているという。ただ、直接に突き落とすという後者の方法はあまりに過激であるから、これが許されないと考えるのは常識的であるが、1人を犠牲にするという点では前者も変わりない。この違いはなぜ生じるのか、本当に正当化できるのか。
管理人も結論としては、上と同様に考える。その理由は、待避線のケースで必要なのは、ハンドルを切ることだけで、その先にたまたま1人の作業員がいたことはハンドルを切る行為とは無関係の不運にすぎないからだ。死の結果をもたらした責任の一端は、その不運に引き受けさせることができる。これに対して、跨線橋のケースで必要なのは、まさに1人の大男をトロッコに衝突させることそれ自体である。大男がそこにいたのもたまたまではあるが、突き落とす行為はその不運をも利用しているのだから、すべての責任を引き受けなければならない。この違いが、許容度に反映されるわけだ。
「命の交換」は正当化できるのか
ただ、1人の犠牲が許されるのは、待避線のケースくらいが限界事例ではないかと感じる。なぜなら、救われる5人と犠牲にされる1人が具体的に特定された人間であるからだ。抽象的に考えれば5人の命より1人の命が重いことはそのとおりだが、Aさんの命とBさんの命はそもそも共通の単位で測れるようなものではない。比較のしようがないなら、手を出すべきでないと考えてしまう。別の言葉で言えば、人間が尊大にも、どの命を救いどの命を犠牲にするかといったことに、介入をすべきでないということだ。
これはもちろん、5人のデフォルトを別の1人に切り替えるかどうか、という場面であればこその判断だ。車のハンドルを左に切れば5人、右へ切れば1人、という場面なら当然1人の方を選ぶ(待避線のケースはこれにかなり近い)。その意味で、管理人の考えは運命論である(最初の状態を重視しすぎる)とか、責任回避である(不作為で5人の方を犠牲にしている)とか批判されるかも知れない。しかし、5人と1人でなく、100人と90人ならどうか。10万人と9万人ならどうか。人数ベースの功利主義を徹底すれば、これも許されることになりそうだが、このような「命の交換」が正当化されるだろうか。
臓器摘出と予防接種の場合
管理人の考え方からすれば、5人の重病患者を救うために健康な1人から臓器を取り出すことは、行為としておぞましいうえに、命の交換も正当化できないから、当然に否定されることになる。逆に、対象人が特定されていない場合は、たとえ命でも共通の単位で測れるから、功利主義的な判断をまず考える。例えば、予防接種は、多くの人の疾病を予防する代わりに、ごくまれに重篤な副反応を生じさせるが、接種の時点では誰がどちらになるか分からないから、これは許されると考える。ただし、予防効果が特定のグループに偏るとか、副反応が特定のグループに偏ることが予想される場合は、半ば人が特定されている理屈だから、また別の考慮が必要だ。
管理人の見解ばかりを述べてしまったが、これはあれこれと考えたことのごく一部だ。「トロッコ問題」それ自体は非現実的な設定だが、科学技術がこれだけ発達してくると、現実の世界でも究極の選択を迫られるような場面が出てくるだろう(もう出てきているのかも知れない)。だから、考えておいた方が良いと思う。
これから「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル 著
鬼澤 忍 訳
早川書房