自由意志との対決『マインド・タイム』

哲学,心理

 自分が何かしようと意識するよりも、その何かをするための脳プロセスの方が時間的に先行している、という驚きの実験結果が本書『マインド・タイム』の中核だ。そうだとすると、意識は自分の行為をコントロールするためにあるのではなく、その持主に「自分の行為は自分でコントロールしている」という感覚を与えるために作り出された虚構になってしまいそうだ。

人間に自由意志はあるか

 これは、人間に自由意志があるかどうか、という哲学論争に衝撃を与えた。自由意志があると言えるためには、①右手を上げようとする意識 → ②右手を上げるための脳プロセス(指令)→ ③右手を上げる行為、というように①が②の原因になっていなければならないが、実験によって判明した実際の時系列では①と②が逆転しているというのだ。①は一連の活動の幹ではなく、枝葉だったということだ。
 しかし、百歩譲って、自意識が虚構であるのは仕方ないとしても、それで直ちに自由意志がないことにはなるわけではない。ただ、本書にもいくつかの「抵抗」が示されているのだが、あまり説得力があるとは思えない。例えば、行為を拒否しようという意志はあるという考えが示されるが、その拒否するという意志自体、同じようなプロセスから出てくるのなら、状況は変わらない。無限後退に陥るか、そうでなければ禅問答になってしまいそうだ。

再考を迫られる自由意志論

 管理人はまったくの門外漢だが、ひとまず次のように考えている。もともと、①が行動の原因だというのが、自由意志の前提なのだが、考えてみれば①は根本原因ではない。そもそも①がどうやって出てくるのかが分からないからである。偶然に出てきただけであれば、むしろ活動は偶然に支配されていることになるし、何かのメカニズムによって出てきたのであれば、そのメカニズムの原因こそが活動を司る根本原因ということになる。
 そうやって考えていくと、そもそも上のような意味での自由意志は成り立ちようがなくなる。根本原因として、「自己充足的である根本意思」などといったものは想定のしようがないからだ。結局のところ、①も②も先行する無意識の脳プロセスから出てくるのだろう。問題は、その無意識の脳プロセスが決定論的なのかどうか、ということになるのだが、これは謎のままである。

かけがえのない自動機械

 管理人はその昔、大学で専門外の「法哲学」をとった時に、初めて自由意志の議論を知った。その時以来、別に仕事とも生活とも何のかかわりもないのだが、何となく、自由意志とか、決定論とか、因果関係とかが気になっていた。所説を知る中でも自分の感覚としての自由意志の存在は疑いようがないと思っていたが、本書の著者による研究やその後の研究の意味を考えるうちに、素朴な自由意志は信じられなくなった。
 それでも、人間(の脳)が単純な自動機械だとは思っていない。また、たとえ自動機械だったとしても、自分の手足や内臓が自動機械であってもかけがえがないのと同様に、あるいはそれ以上にかけがえがないことに変わりはない。自分の行為に責任があるのも、端的に、そういう自分にとってかけがえのないものが行ったことだからだと思っている。


マインド・タイム 脳と意識の時間
ベンジャミン・リベット 著
下條 信輔 訳
岩波書店


2020年6月現在、絶版となっているようである。お世辞にも読みやすいとは言えない本であるが、このような本が絶版になるとは、日本の文化は大丈夫だろうか。
【追記】その後、文庫化された。

書評

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