「夜警国家」ならぬ「夜警メディア」はいかが『誤報』
本書『誤報』は、タイトルそのまま、マス・メディア(主に新聞)の誤報に焦点を当て、その原因と過程を分析・検証したもの。著者自身がかつて悩まされ、また他に迷惑もかけてきた誤報についての著者なりの総括である。その著者は朝日新聞の元記者。誤報の例は各新聞から採られているが、やや朝日新聞が多いのは、他紙への気兼ねがあったものか。それでも、引退しているからこそ書けたのだろう。
それにしても、松本サリン事件、国際「産業スパイ」事件、グリコ・森永事件、宮崎事件の「アジト」……、と並ぶ誤報の数々はうんざりするほどである。もちろん、「数が多い」とか「酷い」とか感じるのは、こうしてまとめるからであって、実際には(ほどほどに)正確な報道が大多数ではある。しかし、この種の誤報が減ったという話は聞かない。減らない原因は、著者もいろいろ挙げているのだが、そもそも報道側の認識がズレているからだろう。
新聞に速報など誰も期待していない
著者は、深刻な誤報が起こるのは、本来はもう一確認が必要なところで見切り発車してしまうためだと言う。その背景には、良く言えば、締め切り時間をめぐる時間的制約、悪く言えば、スクープをめぐる競争心、功名心、そして経済的利益がある。
しかし、読者の側からすれば、新聞に速報など誰も期待していない。そもそも1紙しか読んでいない読者が大半で、他紙と比べて速いのか遅いのかも分からない。分かっても、気にしない。何紙も読み比べるほどヒマではない読者も、何紙も読み比べるほど念入りな読者も、評価するのは速度ではなくて内容である。要するに、速報をめぐる競争は、業界の内輪の競争、それも思い込みでピント外れの基準による競争である。
また、十分な根拠のない状況で、なぜ白か黒かの報道をしたがるのかも、理解できない。関係者の証言が食い違っているとか、あやふやな現地メディアの報道があるだけとか、そういう灰色の状況であるなら、それをそのまま記事にする方が、よほど状況が的確に伝わる。この状況で断定的報道をして運よく「当たった」メディアがあっても、残るのは「あてずっぽう報道」という汚名だけである。
「知る権利」などおためごかしである
本書にも顔を出しているが、読者の知る権利に奉仕する必要があるから、誤報による人権侵害はやむを得ない副作用である、などという珍説がある。しかし、誤報のおそれを残した拙速な報道が、どうやって知る権利に奉仕するというのだろう。同業者との競争で抜いたり抜かれたりすることが、どうやって知る権利と関係するのだろう。
そもそも、知る権利などという頼んでもいない公益を持ち出してはいけない。知る権利などおためごかし、実際の動機は記者と新聞社の功名心と経済的利益という私益である。私益と他人の人権を天秤にかけてはいけない。私益であるなら、記者が失職しようと、新聞社が倒産しようと、他人の人権侵害など許されようもない。
本書での著者の書きぶりはまだしも良心的であるが、最後の「誤報の行方」を見ても誤報を排する途はあまりにも遠いと言わざるを得ない。いっそのこと、「夜警新聞」とか「夜警メディア」というのはどうだろう。民主主義の担い手である読者を啓蒙するなどというのではなく、最低限の役割を果たしながら害悪は吐き出さない、最小限度の機能に絞ったメディアである。
とまあ、今回はえらく噛み付いてしまった。SNSという遥かに厄介なものが出て来てしまったおかけで、従来メディアには期待するところもあるのだが。
誤報 新聞報道の死角
後藤 文康 著
岩波書店(岩波新書)









