無信仰者が読む『なぜ私だけが苦しむのか』と『ヨブ記』

哲学

「なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか」、この問いこそが本書『なぜ私だけが苦しむのか』のメインテーマである。著者が「これ以外のすべての神学的な会話は、気晴らしにしかすぎません」と言い切る重い問いだ。
 管理人のように特に信仰を持たない人間であっても、素朴な因果応報を信じているところがある。善い行いを心がけていれば、良いことが起こるだろう。そうでなければ、逆のことが起こるだろう。そういう一種の「秩序ある世界」への期待。しかし、「善良な人が不幸にみまわれる」という事態は、そうした期待をいっぺんに台無しにしてしまう。この理不尽さを、どう理解すれば良いのか。しかし、本書には、まったく虚を突かれてしまった。そして、覚悟ができた。

『ヨブ記』が突き付ける矛盾

 この問いが最も完璧に描かれたのが、本書で議論の対象になっている『ヨブ記』だ。しかし、これは同時に最も深遠かつ難解な書物で、いくら読んでもかえって疑問が深まるばかり、というところがある。ヨブは善良でありながら、徹底した苦しみの中に陥れられる。非情なまでに「善良な人が不幸にみまわれる」という矛盾が、矛盾のまま放置されているように見える。
 著者の整理によれば、その矛盾を導く、同時には成り立ちがたい3つの命題がある。

  1. 神は全能であり、世界で生じるすべての出来事は神の意志による。神の意志に反しては、なにごとも起こりえない。
  2. 神は正義であり公平であって、人間それぞれにふさわしいものを与える。したがって、善き人は栄え、悪しき者は処罰される。
  3. ヨブは正しい人である。

神ですら出来ないことがある

 さて、信仰のない管理人は、(A)を否定すれば良いものだと簡単に考えていた。なまじ信仰があるから、神を信じるから矛盾が生じるのだと。実際、この矛盾を避けるために、さまざまな(無理な)解釈がなされていたという、半可の知識もあった。
 ところが、大変驚いたことに、ユダヤ教のラビである著者もまた、(A)を否定するのだ(『ヨブ記』の作者は(A)を否定した、という解釈を採る)。著者は、『ヨブ記』の最後で竜巻の中から語った神の言葉の解釈を手掛かりに、次のように述べる。

「世界を公平で真実に保ち、不公平が生じないようにすることが簡単だと考えているのなら、やってみるがいい」〔神の言葉の解釈〕。神は、正しい人びとが平和で幸せに暮らすことを望んでいますが、ときには神でさえ、そうした状態にすることができないのです。残酷と無秩序が罪のない善良な人びとをおそわないようにすることは、神にとっても手にあまることなのです。

 管理人には想像もつかないが、信仰に篤い人が(A)を放棄することは大変なことなのだろう。ましてや、ユダヤ教のラビや『ヨブ記』の作者なら、なおさらのはずである。にもかかわらず、「全能」であるはずの神でさえ「善良な人が不幸にみまわれる」ことを避けることはできないという認識。これは実に重く受け止めるべきことだ。虚を突かれてしまったとは、このことだ。信仰のない人間としては、ぐうの音も出ない。

世界には「理由のないこともある」

 著者は続けて、「理由のないこともある」と述べている。言われてみれば、そのとおりだ。善人だからといって、どうやって病気や事故を避けられるというのだろう。そのような世界、それほど都合の良い世界というのは、信仰のある人間にとってはあちこちで奇跡が起きている世界であり、信仰のない人間にとってはむしろ因果律の破れた無秩序の世界ではないか。端的に、「理由のないこともある」と受け止めるしかない。
 それでも、虚無に陥るわけではない。「理由のないこともある」ことを直視するなら、不幸に陥った人のあら捜しをしてその人をなお不幸に追い込むような真似をしないで済む。不幸から這い出そうとする努力や、その人に対する励ましが無意味になることもない。陥ってしまった不幸に自分なりの前向きの「理由」を見つけ出すことも、人間の優れた力だ。それに、秩序(あるいは神)によって保証されたものではないとしても、善い行いがめぐりめぐって良い結果をもたらすという期待を、すべて捨て去る必要もない。


なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記
H.S.クシュナー 著
斎藤 武 訳
岩波書店(同時代ライブラリー)


旧約聖書 ヨブ記
関根 正雄 訳
岩波書店(岩波文庫)

書評

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