言語に操られる言語使い『思考と行動における言語』

言語,社会

 本書『思考と行動における言語』は、日系アメリカ人の著者による一般意味論の古典的名著。言語本ではあるが、言語をいかにうまく操るかではなく、いかに言語に操られないようにするか、というところに焦点を当てている。それが「思考と行動における」の意味するところだ。本書を読めば、(自分を含めた)多くの人、いやほとんどの人が言葉に操られていることが分かる。そこから抜け出すことは、容易でないけれども。

報告は実証可能でなければならない

 本書には、さまざまな言語的応用が説かれているが、その最も基礎的な活動として報告を据えている。報告は、普通言われるところの事実を内容とする。したがって、実証(あるいは反証)可能でなければならない。実証可能であるからこそ、これに基づく思考や行動の基礎となり得るわけである。これに対して、推論や断定にはその資格がない。殊に報告の顔をした推論や断定は、そうである。それは、事実ではなく、発言者の評価を、主観を、押し付ける。
 これは、日常でもあまりに多く見られる。仕事の場でも、報告を求めると、こちらは5W1Hのような事実を求めているのに、それを評価して丸めた推論や断定がやってくる。「A社に騙された」は、報告ではない。A社の誰が、いつどのような機会に、どのような正当な期待があるところで、それに反するどのような言動をとったのかが分からなければ、何も始まらない。「騙された」では、中身のはっきりしない非難が続くだけである。

抽象のレベルを混同してはならない

 本書には、「抽象のハシゴ」というのが出て来る。(原子や分子から成る物体というレベルはひとまず措いて)最も抽象度の低い具体的に特定される牝牛から、順次、牝牛一般や家畜や資産や富へと昇っていく抽象言語の系列である。これら抽象言語は大変に重要なもので、少しでもベタベタの現実から離れて一般的な議論をしようと思えば、これなしではいられない。しかし、そのレベル感を取り違えると大変なことになる。
 本書で例に挙がっているのは、「ユダヤ人」である。普通の日本人にとっては必ずしもピンと来ないが、ただの民族名称ではない、いろいろと色の付いた言葉であることは分かる。問題は、「ミラー氏はユダヤ人だ」と言った場合の特殊なマイナス反応である。この場合、目の前にミラー氏という具体的な個人がいるにもかかわらず、ミラー氏が属している「ユダヤ人」の一般的諸属性(それも怪しいのだが)を、実際にミラー氏自身がそれを有しているかどうかにかかわらず、あたかもミラー氏が有しているかのように扱うという反応である。これは言葉の一人歩きである。

原始的かつ論理的に混乱した二値思考

 ある命題は真であるか偽であるかのいずれかである。これは「二値論理」であって、おそらく永遠に正しいのであろう。この「二値論理」と似て非なるものが、「二値思考」である。「世の中には、金を持っている人間とそうでない人間の二種類がある」という類の低級思考がそれである。それは、どちらにシンパシーを感じる場合でも、まともな思考や行動にはつながらない。まともな思考や行動は放棄した、と言うべきか。
 言うまでもなく、どれだけ金を持っているかは、大富豪から大貧民までさまざまな度合いをもった「多値」である。AとノットAの可能性しか見ないのは、現実のほとんどを見ていない単純思考である。しかも、金を持っているかどうかは、人間を区分する唯一の属性であるどころか、無限に多様な属性のおそらくは大して重要でない一属性でしかない。「二値思考」はそれを覆い隠してしまう点で、二重に誤っている。それにしても、人間はこういう単純な言説に飛びつきたくなるようだ。ただ誤っているより有害な、極限まで現実を単純化した愚説。

 と勢い込んで書いてきたところで、最後に著者から一言、「『いくら言ってもわからないんだな、ジョー、お前の考えは二値的考え方の悪い例だ』…本書の諸公式をこういうふうに使うかたがたは、この本をボンヤリとしか理解なさらなかったお方であると言うべきであろう」。


思考と行動における言語
S.I.ハヤカワ 著
大久保 忠利 訳
岩波書店

書評

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