近代日本の『夜明け前』の激動期を生きた「人」と「家」と「故郷」
記念すべき100件目の記事は、この作品で。が、とにかく長かった。海外の小説では、ドストエフスキーにせよ、トルストイにせよ、長い小説に事欠かず、「プルーストの『失われた時を求めて』を読んで時が失われた」という笑い話があるくらいだが、日本の小説はそうではない。海外では暇つぶしのために長いものが好まれるという説もあるようだが(リゾート地では分厚いペーパーバックを片手に寝ている人が定番だ)、日本では敬遠されて売れ行きが悪くなりそうだ。
ともかく、本書『夜明け前』は文庫本で全4巻、日本の長編小説、もとい「長い小説」の筆頭格と言えよう。
「木曾路はすべて山の中である」
もちろん、本書はただ長いだけの作品ではない。木曽の山間の宿場町である馬籠、そこで宿場の本陣を営む旧家の当主である主人公青山半蔵(藤村の父親がモデルらしい)が、旧勢力と新勢力がせめぎ合っていた幕末から維新の激動期を生き抜いた生涯を描いた一大絵巻である。日本の近代小説の代表作であるとの評価もあるとおり、日本が誇れる作品に思える。
作中の至るところに現れる木曽路の描写も美しい。書き出しの「木曾路はすべて山の中である」は、川端康成の『雪国』の冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と双璧だろう。この乱されようがないかに思える静寂の木曽路、というのが動乱の時代の背景をなしていて、作品にコントラストと深みを与えている。
半蔵の死と「家」の没落
半蔵はここで生まれ、そして死んだ。最期は哀れなところもあったが、死ぬこと自体は誰にでも訪れる運命であってどうということはない。常に理想と現実との板挟みにあったが、振り返って見れば、激動の時代を生き、当主の責任から夢が叶ったというほどではないとしても、好きな国学をやり、友人に恵まれ、子を残し、まずまずの人生だったとも言える。
彼の一生の中で本当に大きく変わったのは、彼の「家」である。時代の波の直撃を受け、初め本陣・庄屋・問屋を兼ねていたのが、最後は屋敷まで手放してしまった。彼の夢にとって足かせとも言えた「家」が、結局は一番沈んでしまってほとんど何も残らなかったのは皮肉と言えば皮肉である。「家」やそれにまつわる旧制度は今ではほとんど意味を失ったが、制度は別にして個人の人生の幾ばくかは占めるものだろう。
「家」とは?「故郷」とは?
さて、半蔵の「家」があった馬籠は、彼の「故郷」ということになるだろう。と考えてみたものの、実は管理人は、「家」とか「故郷」といったことが(身に染みては)分からない。子供のころから何度か転居して、一つの土地に落ち着いたことがないからだ。言わば、「親の家」はあるが「実家」はない、「出身地」はあるが「故郷」はない、という感覚だ。
ただ、こういう根無し草でまったく困らないし、むしろ自分の外に自分を縛るものがないだけに清々するような気もするのだが、世間ではあまりに多く「実家」や「故郷」が語られる。管理人からすれば、先祖代々の土地が収用にあって生家を追われるといった悲劇も、大変に失礼ながら「持てる者の悩み」に思えてしまう。管理人のような人は実は案外に多いのではないかとも思うのだが、そういう声が出るのを聞いたことがない。不思議と言えば不思議である。
夜明け前 第1部(上)/第1部(下)/第2部(上)/第2部(下)
島崎 藤村 作
岩波書店(岩波文庫)
本作は、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000158/card1504.html等)に入っている。









