原爆投下を論理で考える『戦争論理学』

歴史,数理

 戦争に論理はあるのだろうか。戦略や戦術はあるかも知れないが、論理とは縁がなさそうに思える。そういう思い込みがあるから、本書『戦争論理学』のタイトルは目を引く。しかし、戦争という歴史的事実について論理的に議論することはできるし、またすべきでもある。本書は、第二次世界大戦の、特に日本への原爆投下について、あらゆる論理ツールを駆使して徹底的に議論してみようという異色の本である。

戦争論議を斬る論理ツール

 本書では議論の前提として、原爆投下に関する歴史的事実や、これまでに持ち出されきたさまざまな主張・反論も紹介されているのだが、やはりそれらを料理するための論理ツールが中心にある。いくつか拾ってみよう。

  • ありがちだが誤っているのが、「自然主義の誤謬」。これは、「自然である」と「善い」を同一視する錯誤である。例えば、真珠湾攻撃への報復の衝動はアメリカ国民の感情として自然だが、それが善いとして認められるべきだとは限らない、といったことだ。ただし、これは価値判断についての話であり、意思決定の場面ではまた別である。「自然である」ことは「善い」ことの根拠にはならないが、それなりの理由があることは確かだから、無理に抵抗しない方が良い場合も多い。これは管理人の付け加え。
  • 世の中の稚拙な反論のほとんどがこれではないかと思われる、「わら人形論法」。これは、「対象の本質を脇に置いて、ことさらに批判しやすい側面を提示し、それが対象の本質であるかのように偽りつつ批判して、本当の本質を批判できたかのように装う詭弁」である。例えば、そもそもが政治的パフォーマンスでしかない東京裁判を「芝居」だと批判するようなものだ。前提のうち結論に影響しない細部だけを批判して、なぜか結論を否定できた気になっている、というのも同類か。あるいは、「本当の考察対象から人の注意を逸らすために、無関係の事柄やあまり重要でない論点を熱心に述べ立ててみせる詭弁」である「燻製ニシン」の方か。
  • 実りのある議論を封殺してしまうのが、「完璧主義の誤謬」。これは、「全ての事柄が正しく判定されないかぎり、部分的な事柄も正しく判定できるはずがない」という考えである。例えば、通常の戦争法規違反に関して一方的に枢軸国だけに戦犯を適用するなど、戦争犯罪の評価全体が歪んでいる以上、原爆投下のような個々の行為の倫理的評価を下すことはできない、といったものだ。前半はその通りかも知れないが、だからと言って後半が成り立つわけではない。管理人の知る実例は、「この議題の結論そのものには賛成なのだが、その大前提となっている〇〇に我々は反対の立場を取っているが故に、態度を保留する。」というものだ。

 もっとも、本書にも気になる点がないわけではない。内容(原爆投下)面から見れば、ことさらに通説あるいは俗説を叩いている印象があるし(論理の力を示そうとしたものか)、論理ツールの面から見れば、現実の事実関係や既存の主張・反論はツールの説明事例としてピッタリとはまらない憾みがある(これはやむを得ないが)。

原爆投下の「肯定論」とは

 最後に、原爆投下についての本書における結論は、肯定論に属する。異論がある読者も多そうだが、あくまで論理の本であるという本書の性格を考えれば、それは言わない約束だろうか。
 ただ、著者は、原爆投下のみをことさらに悪と非難することは否定しつつも、原爆も通常兵器も一律に非人道的だから倫理的には否定されるべきと言う。それだけを考えれば、原爆投下自体については、否定論となりそうである。しかし、著者の言う肯定論はもっと入り組んでいる。それは、原爆投下の「質においては銃弾と異ならず、数においては銃弾よりもはるかに少人数の犠牲で戦争を終結させた」という面に注意喚起しつつ、戦争そのものの悪を際立たせる試みだということだ。主張は分からないではないが、論理的にひねりすぎていて、誤解されやすい立論に思える。


戦争論理学 あの原爆投下を考える62問
三浦 俊彦 著
二見書房

書評

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