臓器提供システムの語られない空白『わたしを離さないで』
本作『わたしを離さないで』は、ノーベル文学賞を受賞した作者カズオ・イシグロの代表作の一つである。映画化もされ(管理人は見ていないが)、その特異な背景設定も手伝って、受賞の前も後もかなりの話題となった。ある意味、不思議な読後感のある作品である。
本作の特異な背景設定、すなわち主人公であるキャシーを初めとする「提供者」が臓器提供のために創り出されたクローン人間である、ということは書評や宣伝でも堂々と書かれているし、作者自身もいわゆる「ネタばれ」を容認しているようだ。本作自体はしばらくその点に触れられないまま進行するのだが、管理人はその点はあらかじめ知ったうえで読んだ。
普通人の前半とクローンの後半
そういう前提で読んでいくと、むしろ素直に感情移入できるのは、特段の事件も起こらない前半部分である。ここで描かれているのは、実に普通の人間だ。実に普通であって、美しい。人であって人でない、特異な運命を持ったクローンであると分かっていても、あるいは分かっているからこそ、人間とはこういうものだという、そのかけがえのなさに心を打たれるところがある。
転じて後半、つまり主人公が臓器提供のためのクローンであることと本格的に向き合うようになってからは、ここが本作の核心であることは疑いないはずなのだが、語られていることよりも、むしろ(ほとんど)語られていないことが気になる。
語られない3つの空白
まず、「提供者」がなぜやすやすと自らの運命を受け入れてしまうのか、とうことだ。これは、違和感を覚えるくらいに語られない。「提供者」は、精神的に閉じられた世界に生きているとは言えようが、自由や情報が奪われているわけでもない、強い説得や洗脳があるわけでもない。現実世界でも、特異な家系に生まれたような人は、最終的にはその運命に従うのだとしても、それでも強い葛藤に苛まれるだろう。しかも、運命の質が違いすぎる。「提供者」は、自身の生命を差し出すわけだ。しかし、その生命に深く思いを致すこともない。
次に、「提供者」と、クローン「親」である「ポシブル」との関係である。「提供者」が「ポシブル」を戸惑いをもって想う場面はある。しかし、それは生き別れた親や兄弟を想うようなもので、臓器提供者である自らを生み出した者として見ているわけではない。「ポシブル」側の事情はまったく語られない。「ポシブル」は積極的に協力したのか、やむを得ずそうしたのか、知らないままに事が運ばれたのか。「子」である「提供者」やその運命をどう考えているのか。
そして、臓器提供を受けるレシピエントである。移植を受ける臓器がどこから来るのか、社会は見て見ぬふりを決め込むとしても、レシピエントには分かってしまう。同じようなことは、「クリーン」でない商品を買うような場面の我々にも言えることだが、そうした商品に負の刻印が標されているわけではない。しかし、臓器はその存在自体が来歴を示している。レシピエントは、自身の生命と秤に掛けながら、その臓器にどう対峙するのか。そうしたことは語られない。
本作はどういう作品か
本作が何らかの社会問題に引き付けて読まれることを想定して書かれたのなら、このあたりのことは作品として書き足りていないのではないか、という気がする。あるいは、書かれていないことは読者自らが考えよ、ということかも知れないが、おそらく、本作はそういう作品ではないのだろう。
わたしを離さないで
カズオ イシグロ 作
土屋 政雄 訳
早川書房(ハヤカワepi文庫)