異常と正常、狂気と天才『妻を帽子とまちがえた男』
本書『妻を帽子とまちがえた男』は、脳神経科医である著者の初期のノンフィクション作品である。表題のとおり、たいへん奇妙な症状を持った患者がたくさん登場するのだが、単なる医学的な報告ではなく(多少は説明されているが)、人間や人生についての考察だ。登場する患者たちは、自身の症状を良く理解していて折り合いをつけようとする者もいれば、まったく症状に呑み込まれてしまっている者もいる。それに応じて、その生きざまも様々なのだが、外野で本を読んでいるだけの自分の気楽さを思わずにいられない。
脳神経の紙一重の働き
本書を読んで真っ先に感じさせられることは、人間の脳の正常と異常とは何とも紙一重なのだということだ。表題になっている「妻を帽子とまちがえた男」も、まったくもって衝撃的な行動なのだが、一見して異常が感じられるわけではない。普通に会話はできるし、音楽は人に教えるほどの心得があるくらいだ。ただ、具体的なものを捉える認知能力が欠けてしまった「だけ」なのだ。
脳のどこかに病変があるに違いない。そのわずかの病変によって、これほどまでに奇妙な正常と異常の混在が起こる。あるいは、こうしたことは大なり小なり誰にでもあって、しかし、程度が低くてそれほど目立つものではないから、本人も周囲も気づかないだけなのかも知れない。例えば、足の悪い人と足の遅い人はどこが違うのだろうか、というように。
イディオ・サヴァンと天才
イディオ・サヴァンとは「知恵遅れの天才」、自閉症や精神病がありながら、というかあるからかこそ、信じられない記憶力や計算能力を示す人々である。著者の小説を原作とした映画『レナードの朝』の影響もあってか、一般に知られるようになった。医学の常識では、同じ知的能力の発露であっても、学問や芸術の天才とは質的に異なるものと考えられているようであるが、本書を読むと、天才と狂気は紙一重、あるいは連続したもののようにも思えてくる。気難しくてエキセントリックな天才と時折の天才を見せる狂気の魂は、似ているようでもある。
それはともかく、イディオ・サヴァンの能力は、通常の天才が多かれ少なかれ「開発」されたものであるのと異なり、まさに「地」の能力である。つまり、驚異的な記憶力や不可解なアルゴリズムが、本来的に人間に備わっていることになる。百科事典が丸ごと頭に入ってしまうとか、数桁の素数を未知のアルゴリズムで言い当てるとかいったことが、人間の脳のキャパシティ内に入っているとは驚きである。凄まじいまでの過剰スペックである。
人間の証とは
本書の中には、症状から逃れられなくても、あるいは通常とは違っても、何とか生活を保っている人がいる。それを超えて、内面では豊かな精神生活を営んでいる人もいる。一般に芸術、特に音楽はそうした精神生活の礎になりやすいようだ。そういう話を聞くと、ついそれを人間の証などと言いたくなるのだが、控えておいた方が良いかも知れない。それは反面で、そうでない人は人間ではない、という悪魔の思考にやすやすと至ってしまうから。
本書を読んでいて辛いのは、そうした「そうでない人」はやはりいる(おそらくはたくさん)という事実だ。本書のカバーには「患者たち…心の質は少しも損なわれることがない」と書かれているが、それは公平な見方ではない。著者ですら、「彼らの世界は分解し、浸食され、無秩序と混沌の状態にある。もはやいかなる心のよりどころも存在しないのである」、「自我はどうやってこの攻撃に耐えていくのだろう?耐えられるのだろうか?アイデンティティは失われないですむのだろうか?」と書くほかないのだ。
妻を帽子とまちがえた男
オリバー・サックス 著
高見 幸郎,金沢 泰子 訳
晶文社