名画を説く絵画のような文章『名画を見る眼』

言語,芸術

 本書『名画を見る眼』は、岩波新書で正続二巻。続編中の一編に驚いたので紹介したい。著者の高階秀爾氏の本は以前にも取り上げたのだが、その時の本のテーマは著者の専門外の日本の美。今回のは専門中の専門である西洋美術。本書は、著者が西洋の名画を一点10頁くらいで、その作品と作者を次々に紹介していくというもの。正編がマネまでの近代以前の絵画、続編がモネ以降の近代絵画。それ自体は変哲のない本だ。

なるほど、印象派とはこういうものか

 問題の一編は、続編の冒頭にある「モネ『パラソルをさす女』」だ。「光への渇望」というサブタイトルを付してモネの代表作である「パラソルをさす女」を扱っている。題材は誰でも知っている。驚いたというのは、その見事な文章作法である。
 同系色の冒険をしていること、当時珍しかった戸外での制作であること、絵具チューブが役割を果たしたこと、印象派の光の使い方、印象派に対する当時の評価、色彩分割と網膜上の結合、「なるほど、印象派とはこういうものか」と膝を叩いてしまう見事な展開だ。そして、落ち着きつつもコントラストの強い、それ自体が絵画(本書の中で言えば、光と影そして遠近が特徴のフェルメールか)のような文章。一つ、例を引こう。

従来の絵画観によれば、自然の中に存在するものは、すべてそれぞれ固有の色を持っていた。つまり、緑の草はいつも緑であり、青い衣装は飽くまでも青い衣装であった。ただその青や緑が、時に応じて明暗の変化を示すだけであった。……ところが、モネたちは、太陽の光の下では、自然のなかのものは固有の色をもっていないということを見出した。緑の草も、時には夕陽の照り返しを受けて赤く輝くこともあれば、青い衣装の上にオレンジ色の陽の光がこぼれ落ちることもある。それは言うまでもなく「光」の作用であるが、モネたちは、その「光」の作用を、躊躇なく「色」の世界に置き換えた。

 長くなるので引用はしないが、原色主義と光学理論が、明るさを失わせる「絵の具の混合」を否定して白色光への「光の混合」に向かわせ、原色を別々に小さなタッチで画面に並列するという「色彩分割」を生んだ、という件も実に秀逸だ。
 こうした話の合間に、同じ印象派に数えられるルノワールの裸婦像の肌の上にこぼれ落ちる光の斑点を理解し得なかった評論家が「死斑の浮き出た屍体のような肉体」と言って非難したという話や、後に印象派を形作る若い画家たちのグループ展を見た美術記者が書いた非難と嘲笑に満ちた「印象主義者たちの展覧会」という批評文が「印象派」の呼称の出自であったなど、関連エピソードが織り込まれる。最後に歴史的背景が来て、締めて10頁。無駄な記述がなく、実に密度が高い。

これぞ理想の文章

 ロジックの流れが良いから、次に来る内容が予測できる。そして、その予測したとおりの内容が来る、それだけはなくて、その予測した内容が予測した以上の明晰な言葉で語られるのだ。「キミが予測したのは、こういうことだよね。ご名答。それを、これ以上になく明晰に表現すると、こうなるのだよ」と言われているかのようだ。
 明晰な文章、ということについては以前にも書いたことがあるが、それは元が講演速記であったから、正直なところ文章よりはロジックの方に偏っていた。だが、本書は違う。絵画の対象物や使われた技法は言うまでもなく、絵画の生み出すイメージや美といったしばしば曖昧にしか語られないものまでが、このうえなく明確な輪郭をもって現れる。こういう文章は、管理人が常々理想に思っているものだから、余計にそう思ってしまう。


名画を見る眼 正/続
高階 秀爾 著
岩波書店(岩波新書)

書評

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