シンギュラリティより怖いもの『AIvs.教科書が読めない子どもたち』
本書『AIvs.教科書が読めない子どもたち』の著者は、数学者。AIで東大合格を目指した「東ロボくん」プロジェクトのリーダーにして、読解力調査のためのリーディングスキルテストの産みの親だ。一見すると、AIと読解力はあまり接点がないように見えるが、本書でそのつながりが分かる。
AIに代替されないためには
つまり、AIは意味を理解できないから東大合格までには厚い壁がある、しかし力業でMARCHレベルには達している、ということは大半の人はいずれAIに代替されてしまう、代替されないためにはAIにできないことをするしかない、それならばまず読解力を鍛えるべし、ということだ。
もっとも、こうしたことはAIならずとも、歴史上、新たな技術が出るたびに言われてきたことではある。あえて言えば、今回ばかりは本当に大半の仕事がなくなるのではないか、これに対応するカギは意外にも平凡そうに見える「読解力」にある、というのがポイントということになろうか。しかし、何と言っても興味深いのは、やはり著者の実体験に基づいたAIや読解力にまつわる各論だ。
シンギュラリティは恐れるに足らず
まずはAI。著者は、いわゆるシンギュラリティ(自分自身より能力の高いAIを作り出す地点)は来ないと断言する。近年はディープラーニングによる放射線画像診断や囲碁・将棋などAIの進歩が著しい。しかし、正確に言えばこれらは「AI」ではなく、その要素となる専用技術すなわち「AI技術」だ。シンギュラリティを可能にするような汎用技術にはほど遠い。実際、「東ロボくん」が壁に当たったのも、AIが意味を理解できないため大量の英語例文検索といった便法に頼るほかなかったからで、どうしても専用技術にならざるを得ない。
シンギュラリティが来るかどうかは別にして、管理人も、最近のAI信奉には違和感を覚える。ディープラーニングの成功で、機械が人間的な知性に近づいた(あるいは超えた)などと言われるが、違うのではないか。そうした成果を生み出した専用技術の対象は、ルールが初めから決まっていたり、それが大量のデータで与えられていたりする、かなり機械向きの対象なのではないか(本書にもそういうコメントが出てくる)。人間的どころか、人間にとっては不自然で難しい。むしろ、それを長期間の専門的な訓練によって人間がマスターしたのが凄いことなのであって、だからこそ高く評価されてきたのだ。他方、機械にそれが出来るのは普通の進歩のレールの上に乗っただけの話、だからこそ出来たのだろう。
日本人は日本語が読めない
次に読解力。こちらの方は、管理人の想像を超えていた。例に挙げられているレベルの問題を間違えてしまうのは子供だからという気もするが、「某新聞社の論説委員から経産省の官僚まで」間違える問題もあると言う。そうだとすれば、状況は深刻だ。
管理人は(自戒も込めて)、仕事を通じて、つくづく日本人は日本語が書けないものだと感じていた。取引先からのメールなど、何が言いたいのか分からない、そもそも日本語になっていない、というのをたくさん受け取った。日本語としてきちんと伝わる文章になっているだけで、この人はしっかりしている、きっと仕事もできるに違いない、などと感心してしまうくらいである。しかし、書けないどころか読めないというのが真相であったとは。これでは、的確なコミュニケーションなど取れるはずもない。
諸外国の実情は分からないが、少なくとも日本では、感情やイメージを伝えるだけにとどまらない、当たり前にロジカルな文章を読み、書く訓練が圧倒的に不足していると思う。母国語であれば、ダベリの言葉は自然に身につく。しかし、社会人が仕事で使うような言葉には、それなりの訓練が不可欠だ。だから、休み時間にあれほど饒舌な子供が教室で沈黙してしまうのと同様に、飲み会であれほど饒舌な大人が会議では沈黙してしまうのだろう。単に、言うべき内容を持っていないだけかも知れないけれども……。
AIvs.教科書が読めない子どもたち
新井 紀子 著
東洋経済新報社