西洋美術の碩学が問う『日本人にとって美しさとは何か』
本書『日本人にとって美しさとは何か』は、絵画から、建築、音楽、和歌、文字まで、古今の日本の美に関する講演記録や寄稿文をまとめたものである。著者の高階秀爾氏と言えば、元国立西洋美術館館長、西洋美術の碩学というイメージであったから、「日本人にとって……」というタイトルを見た時は、正直「あれ?」と思った。しかし実際は、日本美術についての造詣も大変に深いそうで、本書にも随所に、西洋美術と日本美術の比較の視点が出てくる。
「絵プラス文字」の伝統と漫画
本書には正統派の美を扱った論考が多いが、少しくだけたものとして漫画、絵葉書、ロボットの話が登場する。こんなところまで目配りされているのかと驚くが、内容も秀逸だ。特に、漫画の話は短いが興味深い。
我々日本人には少々意外な感があるが、絵と文字が混然一体となっている、という時点でかなり異質のものらしい。西洋では絵と文字はまったく別の領域で決して重なり合わないし、中国の詩画でも文字は余白に書かれる。しかし、日本では、絵と文字を重ねてしまう。そればかりか、文字のデザイン・レイアウト、与謝蕪村も使っていた絵文字(まさに絵文字そのものだ!)、文字で組み上げた鎌倉時代の曼荼羅(AAではないか!)、というように昔から「絵プラス文字」の文化があったのだという。そう考えると、日本の漫画は、実はかなりの伝統に裏打ちされたものということになる。
オノマトペの棲む漫画
また、現在では世界中のどこにでもある漫画だが、日本の漫画には他にない特徴があるという。オノマトペ(擬音語・擬態語)の多用だ。特に目を惹くのが擬態語で、これは「ピタッ」や「スルスル」というように状態や動きを感覚的に表現する。「バシッ」や「ドカン」といった擬音語よりも、イメージ化が進んでいる。これが漫画にピッタリで、表現の幅を広げている。このオノマトペは、「絵+文字」で言えば「文字」の範疇に入るのだが、セリフと違って絵に重ねて効果文字で描かれる。絵と一体化して効果を出す。これも伝統の故か。
圧巻は、「シーン」だ。言うまでもなく、静かであることを表す擬態語なのだが、これはそもそも他の言語にはない。音ではない(むしろ音がない)のに、音のような表現が使われる。この「シーン」が使われたある漫画が翻訳されるとき、訳しようがないのでカットされてしまったそうだ。管理人は夜間、人気のない山中で、あまりに静かで逆にこの「シーン」のような音が聞こえてきたような錯覚に陥ったことがある。「シーン」は、「森(しん)とした」が語源のようだが、あるいはそういう出自なのだろうか。
そもそも漫画は「読む」ものか、「見る」ものか。「絵+文字」文化の視点からすれば、まさに「読みながら見る」「見ながら読む」もの。その区分けのなさが漫画の、殊に日本の漫画の特質なのだろう。
と、ここまで書いてきたところ、何と国立国語研究所のサイトでも日本の漫画と擬音語・擬態語の関係を扱っていた。このサイトによると、世界で擬音語・擬態語が最も豊富なのは韓国語で、日本語は二番目なのだそうだ。それでも、本書によれば、件の「シーン」は、韓国語にすら訳すことができなかったという。
「シーン」を超える最強のオノマトペ
と、ここまで書いてきたたところ、「シーン」を超える最強のオノマトペがあることに気がついた。それは、「ぽっくり」である。広辞苑によれば、「急に死ぬさま」ということなのであるが、実際はそれよりも遥かにニュアンスが豊かである。ネガティブな少々品の悪い使い方もされる一方、「ぽっくり寺」に見られるような苦しまない往生という、願望や理想といったところまでカバーしている。英語では味も素っ気もない"(dying) suddenly"、やはり外国語には訳しようのない言葉なのだろう。
ところがこの「ぽっくり」、漫画の臨終のシーンで使えるかというと、どうにもそぐわない。なぜだろうか。おそらく、「ぽっくり」はこと切れる瞬間をいうというよりも(「物のもろく折れるさま」という意味もあるから、それが原義なのだろうが)、つい最近まで、それどころか老年になってから何年も元気でいたのに突然に、というような一定のスパンの状況全体を包み込んでいるからではなかろうか。瞬間を捉える擬音語と同系列の言葉でありながら、そこから大きくはみ出してしまった。こんな破天荒な言葉は他にないのではないか。
日本人にとって美しさとは何か
高階 秀爾 著
筑摩書房