凡俗と稀代の音楽家をめぐる言葉の洪水『ジャン・クリストフ』
本作『ジャン・クリストフ』は、ノーベル文学賞も受賞したロマン・ローランの代表作。主人公のクリストフは、べートーヴェンがモデルになっているらしい。作者には、『ベートーヴェンの生涯』という伝記作品もあり、そちらの方は当然のことながら、才能と栄光とに包まれている。ところが、同じようなつもりで本作を読んでいたら、全然印象が違っていて驚いた。他人を物ともしない激しすぎる性格、というようなところは共通しているのかも知れないが……。
2000頁を埋め尽くす言葉の洪水
本作はいわゆる大河小説、特筆すべきはその長さである。好きで読んでるのだからいくら長くても構わない理屈ではあるが、とにかく長い。全10巻、岩波文庫版で全4冊2300頁、今年のGWに読み始めて今までかかってしまった。これだけ長くかかったのは、ただ物理的に長いだけでなく、その長さの質にあるように思う。続けて読みづらい、続けて読むとすぐに満腹になる、いや、胃もたれを起こしてしまうのだ。
これまでレビューした中で特に長かったのは、海外文学では『レ・ミゼラブル』、日本文学では『夜明け前』だが、これらが長いのには理由があった。プロットを外れた歴史的背景のような章があちこちに挿入されており、これが長さを稼いでいる。純粋にプロットの部分は、いかにも物語然としていて、そこはグングン進む。ところが本作には挿入物はない。つまり全体がプロットなのだが、その代わりプロットの部分が純粋な物語になっていない。くどいくらいの人物描写、心理描写、民族描写、政治と思想と芸術の独白。会話がほとんどないまま何十ページも進む間に、言葉、言葉、言葉の洪水である。すべてを言葉で説明し尽くそうとする。良い悪いを超えて、西洋人の言葉に対する姿勢とはこういうものかと唸らされる。
凡と俗にまみれた幼少期
さて、肝心の内容であるが、特筆すべきは序盤、つまり人格が形成される青年期までのクリストフの環境がひどいのだ。環境といっても階級とか貧困とかいった話ばかりではない。人的環境がとにかくひどいのだ。クリストフが交際する人々のうち、まともなのは母方の叔父ゴットフリートくらいのもので、後は凡庸、凡俗、あるいはそれ以下である。祖父と母親はまだ良い。父親は、息子を人気音楽家に仕立てて金儲けをたくらむ粗暴な飲んだくれ。その他、金持ちのボンボン、下宿屋の娘、お澄まし母娘、子持ちの未亡人、色狂いの店員、まあ、ロクなのがいない(作品中ではここまで酷くは書かれていない、あくまで管理人の感想)。
同じひどい環境でももっと手ごたえのある環境なら、不屈の精神でこれに立ち向かったことで精神が鍛えられた、というようなこともあるだろう。しかし、ある意味手ごたえのない、凡だの俗だのは、芸術家にとって、最も唾棄すべきものではないか。しかもクリストフは、そのような凡俗な人物相手に、いちいちプラス100からマイナス100までの振幅で、感情のジェットコースターに乗っているのだ。まあ、クリストフは人間としてはずっとその調子であるし、凡俗もまた「芸の肥やし」にはなっていたのかも知れないが。それにしても、これで良く立派な音楽家になれたものだ!
もっとも、第6巻から、事情が変わってくる。突然、まったく別の人物の幼少期からの生活物語が繰り返される。それにはもちろん理由がある。クリストフを凡俗のぬかるみから引き上げる重要人物、音楽家クリストフの欠けたピースの一片であるオリヴィエの登場である。そしてこのあたりから、言葉の洪水もいよいよ激しくなる。いやまあ、大変な小説である。
ジャン・クリストフ 1/2/3/4
ロマン・ロラン 作
豊島 与志雄 訳
岩波書店(岩波文庫)
本作は、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1093.html)に入っている。